その日、その時を、ただ神が知る。

 今日、読者の方からいただいたメッセージと写真に、胸を打たれた。その美しさに魂を激しく揺さぶられた。

 臨終の間際にある読者の父の姿。死を悟り、全てを達観したように静まりかえり、それでいて自分の全てを出し切っているように見える人間の姿は、あまりにも気高い。

 そして、臨終の傍らに置かれた復刊第3号の風の旅人は、そこに存在することが、まるで最初から決まっていたかのようだ。

 写真を送ってくださった読者は言う。

 ”その日、その時を、ただ神が知る”心境でいると。

 雑誌を作っていて、評判はどうかとか、売れるかどうかとかいうことも大事なことかもしれないけれど、そうした分別を超えて、風の旅人が読者の人生の大事な節目に寄り添うものであるために、とにかく真面目に、必死に作り続けること。それしかないと、改めて心に誓った。

 もちろん、10年前に風の旅人を創刊した時から、不真面目にやったことは一度もなく、その時々、自分を超えた力を自分に降ろすようなつもりでやってきた。

 私自身が、この雑誌を作っているのではなく、ただ媒介者として作らされている、むしろ、作らせていただいているという感覚で。

 ”その日、その時を、ただ神が知る”。

 死を間際に迎えた人間の心境のように、ちっぽけな自分へのこだわりを捨てて、無心になり、一つの受け皿になり、そこに透明な水を張り、その上に一滴の雫が落ちる瞬間を待つ。

 その上で、一滴の雫を起点にして広がっていく波紋に身と心を委ねる。ただひたすらその波紋を自分の鼓動と重ね合わせる。

 自分の鼓動が途絶える時には、自分自身の存在は、きっと波動そのものになるのだろう。死というのは、そういうことなのだろうと、ふと思う。

 静寂の中に、一滴の雫が落ちる音とともに命が生まれ、そして、波動の広がりの中に、命が溶け込んでいく。それが死なのだろう。生は、その瞬間までの波動の美しいリズムとメロディなのだ。

 だから、死を目前にして、身体をまったく動かすことができず、息することだけに精一杯であっても、我々は、そこに生の波動を感じとることができる。むしろ、そういう状況であるからこそ、生が息吹であり律動であることが実感できる。

 その息吹や律動を手がかりに、私は、風の旅人を作ってきたし、これからもそれ以外の方法を知らない。

1 球根の中には 花が秘められ、
  さなぎの中から いのちはばたく。
  寒い冬の中 春はめざめる。
  その日、その時をただ神が知る。

2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
  深い闇の中 夜明け近づく。
  過ぎ去った時が 未来を拓く。
  その日、その時をただ神が知る。

3 いのちの終わりは いのちの始め。
  おそれは信仰に、死は復活に、
  ついに変えられる 永遠の朝。
  その日、その時をただ神が知る。

  (球根の中には/作詞、作曲 ナタリー・スリース)

 以下は、この臨終の写真をここに掲載することを許可していただいた読者の言葉。

「この世には、なぜだろう、と考えても答えが出ない事が沢山ありますね。

 6日 昼間は生業、夕方からは日課になっている父親を見舞い、帰宅して諸々の家事を終えてから夜11時過ぎに、ヤット!コノジカン〜と高まる気持ちと、暖かいお茶を片手に、手に届いた<風の旅人>を封から出して先ずはパラパラと開いたその数分後、私の携帯電話に、病院から「父の危篤」を伝える電話が入りました。
 その日も、面会時間の夜8時まで父の側にいたのですが、その時には、根拠もなく、またいつもの夜の時間が流れるはずと勝手に信じていました。
 肺炎で血圧が下がりまして、と説明され、その時から24時間付き添いとなり部屋も個室に移されました。
 まさに、風の旅人を、わくわくした気持ちで開きかけた夜でしたので、病院に駆けつける時には、迷わすバックに入れて持参しました。その夜は母と付き添い、翌日、土曜日の夜は娘と付き添い、三日目の今夜は一人での付き添いなので、やっと、ゆっくり、風の旅人と向かい合う時間を持ちました。
 昨年春から、認知症状が進行した父親を在宅介護で一年半。今年の夏に、脱水と肺炎で緊急搬送されてから、丸々4ヶ月の入院生活です。
 親を見送るのは役目と覚悟はしていましたが、何とも寂しく空しいものですね。
 真っ直ぐな必死さで、本当の生を現している花や緑を愛し、又まさに、その様に生きてきた父でした。
 今夜の私も、その時が来たら、あえて枕元のブザーを押さずに父の手を握ってあげたいそんな気持ちで一夜を明かしました。
 風の旅人 復刊第三号に掲載されている「解脱の部屋」や、巻末の次号予告文からも大きな慰めと励ましを与えられた気持ちもご報告したくて、勝手ながらこんな想いを吐露させて頂きましたので、読み流して頂けたら幸いです。」

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