視ることと、感じ考えること

 広尾にできた写真ギャラリー、エモン・フォトギャラリーで、「風の旅人」Vol.17(12月1日発行)で紹介した西山尚紀君の写真展が行われている。

●エモン・フォトギャラリー→http://www.emoninc.com/concept.htm

●西山君の写真→http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/17/image2.html(真ん中あたりの子供の写真)

 3月10日のトピックで八木清さんのプラチナ写真について書いたけれど、西山君の写真も、オリジナルで見尽くしていたので、敢えて展覧会に行く必要性は感じなかった。しかし、取材で広尾周辺を訪れたついでに、写真家の中野正貴さんと一緒に立ち寄ってみたのだが、独特のギャラリー空間のなかで、写真が新たな存在感を放っているのを感じることができた。

 このギャラリーは、広尾駅から近く、外苑西通から一本入っただけの小さな路地にあるのだけど、別世界のように閑静で、しかも場所を特定できない。道が緩やかに斜面になり、しかも曲がっているので、時空が歪んでいるような感じがある。

 オープンした時から写真作品を展示しているが、商業的なものを扱っていない。といって、装飾的なアートでもないし、先端を気取るようなところもない。内実を重んじる結果として、固有性が立ち上がっている作品を、これまた固有の見識と信念を持つ人が、自分の美意識に添ってセレクトしている。

 だから、ギャラリーの空気と、作品の空気と、展示の仕方から醸し出される空気に一貫性が感じられる。作品一つ一つを見るのもいいが、この空間そのものを一つの心地よい作品として身体的に感じることができる。

 空間の中に作品を馴染ませ、かつ、作品の持ち味を引き出し、響き合わせて、新しい思考と新しい感覚が生じることを期待すること。こうした試みは、私が「風の旅人」を制作するうえで大切にしたいと思っていることであり、何かしら共通に交わるものを感じる。・・・だからこそ西山君の写真が選ばれ、ギャラリーに展示されているのだろうが。

 作品と、それを見る人を交わらせるために、雑誌やギャラリー空間がある。

 しかし、今日の多くの雑誌やギャラリーは、商業的な意図がみえみえであったり、誰かがお墨付きを与えた物を無造作に紹介するだけであったり、身内だけで賞讃し合ったり、作り手のパフォーマンスにすぎなかったりが多く、表現する側と、その表現を受け取る側の間で、ものを見る眼、眼差しそのものを感覚的に共有することを願って行われているものは、意外と少ない。

 その結果、概念的引用(有名らしいとか、高い評価を受けているらしいとか、これが流行しているらしいとか、こういうのがアメリカでは新しいらしい等々)にすぎないものが一人歩きをして世界を形成する。その概念的世界と、一人一人の感覚は一致していないのに、概念的世界が優先される。そのようにして、一人一人の感覚の固有性(ものを見る眼、眼差しそのもの)は無いものとして扱われる。

 アート作品と呼ばれるものが、公共スペースも含め生活のなかにたくさん入り込んできても、一人一人の人間の感覚と交じり合っておらず、概念で「へえーそうなの」と納得させるだけのものが多い。

 管理社会というのは、実は、社会システムの表層だけを指すのではなく、一人一人の人間の感覚が、他人が作った概念世界に支配されていることに本質的な原因があるように私は思う。

 そうなってしまうのは、体制がどうのこうのという以前の問題として、「概念的意味や目的を安易に理解して分類したがる」私たちの思考の癖のなかに原因があるのだろう。

 私たちは、ものを見ているようでいて、その瞬間、多くのものを捨象してしまう癖がある。多くの人が無自覚的に持っているその癖に媚びたものが、カタログ的なものやハウツー的なものであって、そういうものの方が自分の癖に合致するので、知らず知らず手が伸びてしまう。その結果、他人が作った概念のなかに自分の感覚が封じ込められていく。自分の感覚が封じられて、自分の感覚を通した判断基準が育まれないと、この世の現象に晒されると混乱してしまい、ますますカタログやハウツーに頼ることになる。カタログやハウツーは、一種の麻薬のようなものだ。

 この時代に多くの人が感じる閉塞感というのは、そのようにして自分の感覚が封じ込められていくことに原因があるのではないか。

 といって、自分の感覚を開いていくことの大切さを概念で語ることは簡単なことで、それをしたところで、新しい回路はどこにも開かれない。

 エモン・フォトギャラリーの運営者は、おそらくそうしたことに自覚的であるだろう。だからこそ、ご本人がデザインの専門家であるにもかかわらず、写真を重視した展示を行っているのだろう。写真のもっとも大事な性質は、表現者の作為を最小限にとどめ、モノゴトをありのまま写し取ること。ありのままというのが実は簡単なことではなく、多くの人は、知らず知らず、他人が作った概念世界に蝕まれており、その概念に添って、モノゴトを捨象し、世界を切り取っている。そうしたスタンスで撮られた写真は、新しい感覚を立ち上げることにつながらず、既に所有している概念をなぞり合うだけのものにすぎない。

 といって、新しい感覚を立ち上げることに意識的になりすぎた写真もまた、作為的であり、ありのままのからは遠い。それが自分にとってありのままだと主張するのは構わないが、その主張じたいが目的化しているものは、作り手の虚栄を強く感じて、疲れてしまう。

 そうではなく、上に述べたように、「表現する側と、その表現を受け取る側の間で、ものを見る眼、眼差しそのものを感覚的に共有することを願って」ありのままに写しだされた写真は、どんなに暗い色合いのものであっても、なぜか清々しい印象を与える。その清々しさが魅力となって、自分の感覚を自由に開くことができる。世間の固定した概念が入り込む隙もない。

 そのように自由に深く感じ考えること。私が「風の旅人」で掲載したい写真はそういうものであり、西山君の写真もそうであった。だから、彼が写真の売り込みで事務所に来た時、写真を見てすぐに直観し、その場で写真の組み合わせを決めて、SELF−HELPというテーマも決めて、12月号で掲載することを決定した。

 その彼の写真が、「風の旅人」の空気のなかで、一つの役割を演じたように、エモン・フォトギャラリーの空気のなかで、魅力的な役割を演じている。

 映像で固定概念を説明的になぞるのではなく、新たな固有の概念を立ち上げること。そして、言葉でパターン化された感覚を説明的になぞるのではなく、新たな固有の感覚を立ち上げること。とてもややこしいのだが、そういうことが大事なのだと思う。

 いずれにしろ、新しい感覚と新しい思考を導く表現がなければ、今日の閉塞的な状況は変わらない。その表現は、モノゴトを安易に理解させることを目的とするものではなく、その表現の受け手に深く考え感じさせるものでなければならないのだろう。それを自然と行わせる不思議な魅力を秘めたものでなければならないのだろう。

 西山君の展覧会は、4月2日迄。