出版業界とか文学業界とか・・・

今朝、電車の中吊り広告に、「歌手と二足のわらじを履く美人芥川賞作家誕生!」(川上未映子の文庫本用の宣伝。でも彼女が芥川賞をとったのはだいぶ前の筈)とキャッチコピーがあった。歌手も美人も文学には関係ないことだと思うが、売るためには、なりふり構わないのか、こういうキャッチで人を誘導することができると思っているのか、それとも、事実として、こういうキャッチの方が興味を持つ人が多いのか。

文学を取りまく状況の混迷ぶりは、もうどうにもならないところまできている。本の売り上げは毎年著しく減少しているのに、昨年度の新刊の発行点数は78555点と過去最大だった。一日に200点以上の新刊がどこかから発行され、本屋に押し込まれている。そのカラクリは、なんとも酷いものだ。

http://intec-j.seesaa.net/article/95359115.html 

つまり、売れなくても書店に押し込みさえすれば、出版社はとりあえず売上が立つ。書店から返本されれば返金しなくてはならないので、それ以上の数の本を作って本屋に押し込む。完全な自転車操業だ。しかし、こうした手法をとれるのは大手出版社だけであり、我々のような新規参入組は、本を書店に置いてもらい、6カ月後に売れた分だけ入金される。作ればすぐに、作った分だけお金が得られる大手出版社とは雲泥の差だ。

しかしながら、現在のような流通システムだと、大手出版社にとって本屋に売れ残っている本は、実は借金みたいなものだけど、その実態がわかりにくい。また、多くの出版社が非上場企業であり、経営状況をオープンにしていない。

私は、20年ほど前、カネボウ化粧品マーケティングや販売促進に関する仕事をしていたことがある。実は、その頃、化粧品業界も現在の出版業と同じような状況になっていた。当時、化粧品も、書籍のように再販制度に守られ、店は、メーカーが取り決めた金額でしか商品を売ることはできなかった。そして化粧品会社が次々と新商品をつくり、それを販売会社を通してチェーン店に押し込んでいた。チェーン店は、条件付きではあるが、売れ残りの返品が可能であり、それは現在の書籍流通と似ていた。

しかし、売れ残りが多くて、チェーン店が返品してくると、また新たな商品を押し込む。その状況のなかで化粧品チェーン店は疲弊していった。再販制というのは、そのようにメーカー側にとって都合の良いシステムをチェーン店に押し付ける代わりに、チェーン店同士の価格競争による共倒れを防ぐための配慮であり、それは現在の書店と似ている。

そうした状況のなか、資生堂福原義春さんが社長に就任し、販売会社につけ回していた大規模な在庫を買い戻した。「在庫を押し付けて会社の決算をきれいに見せても仕方がない」と判断して350億円ほど処分して、それをマイナス計上するという英断を行った。

そのことによって資生堂は、その年の決算は酷いものになったが、その後、身軽になった状態で再び力を取り戻した。しかし、カネボウはそうした英断を行うことができず、形の上で利益があるかのように見せ続け、それが膨れ上がり、最後には莫大な負債があることが判明して倒産した。

現在の出版社もまた、深刻な経営難に陥りつつある。小学館講談社は2年連続の赤字で、集英社も赤字に転落した。日本の出版業のトップ3が赤字なのだ。

http://mabo.livedoor.biz/archives/2940418.html

しかしながら、ここに示されている数字は、店頭に売れ残っている本のことが含まれていない。もし、店頭で売れ残っている本の全てが出版社に戻されたら、いったいどれほどの赤字になるのだろう。

そうした出版業界の苦境とともに、文学業界の状況もまた悲惨だ。

このたびの芥川賞の受賞に関して、先日、自分の考えを述べたが、

 http://kazetabi.lekumo.biz/blog/2010/08/post-dce1.html



 

選考委員の人達のコメントを見ていたら、現在の文学産業に対する違和感がますますつのる。

例えば池澤夏樹氏は、「この話しは『アンネの日記』を読んでいなければわからないというものではない。作中の情報の提示は親切で、実はこの名作を読んで無かった僕も十分に楽しめた。」と言う。

 読んでいないのに、作中の情報の提示が親切と、どうして言いきれるのだろう。作者が『アンネの日記』を歪めている可能性があるのに、そのことを気にかけなくていいのだろうか。作者が提示するアンネに関する断片的情報で、わかったつもりになって読書を楽しむこと。それが読書の楽しみであると考える人もいるだろうが、楽しむこと以前の問題として、言葉が事実を歪めることに対してどれだけ葛藤しているか。そうしたスタンスが文学者の証だと思っていたが、そうではなく、楽しめる読み物を提供することが、お仕事なのだろうか。

 また、川上弘美氏は、「アンネの苦しみと、「乙女」であることについての主人公のアイデンティファイのしかたのつながりにかんしては、わたしはほんの少しの危惧を感じました。」と述べるが、この「ほんの少しの危惧」という、“ほんの少し”が意味するところはいったい何なのだろうか。けっきょく、そのことを自分ごととして引き受けて考えていないので、直感的に危惧は感じるものの、その感覚をそのまま放置して水に流しているだけのように思える。

 山田詠美氏は「『スピーチでは自分の一番大事な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう作業でしか出会えへん言葉やねん』前半のこの二つの文だけで、受賞作に相応しいのでは?と嬉しくなってしまった。久しぶりに、言葉が一番!の小説を読んだ気持。机上の空論ならぬ机上の暴論が、あちこちに出現して、おもしろくって仕方なかった。小説の世界だけに存在するユーモアは希少価値。」と述べる。

 まず、この小説のなかに出てくるわざとらしい表現がユーモアだと思っているところもなんだが、机上の暴論はOKとか、スピーチ云々の文だけで受賞に相応しいとか、こういう選評を読んで、まさか、その線を狙う新人が多く現れるとは思わないが、芥川賞の審査員も、ワイドショーのコメンテイターも同じようなもの(それが悪いとは言っていない)という姿を、芥川賞を舞台にさらしている。芥川賞の権威を引きずりおろすための確信犯ならば、それはそれで頭脳的であるが、果たしてどうなのだろう。

 いずれにしろ、「文学者」というのは、非常に聡明で、思考に優れ、想像力が素晴らしい人達というのは幻想であるということが、次第にはっきりしてきているのかもしれない。

 もちろん、なかには本当に凄い人もいるのだろうが、本当に凄い人というのは、どの分野でもそうだろうが、ほんの一握りなのだ。肩書などは、あてにならない。医者でも弁護士でも大学教授でも写真家でも画家でも文学者でもなんでもそう。

 肩書や賞歴などの飾り物に騙されずに、その人自身の表現や発言や実践行動そのもので判断していく他はない。これからどんどん、そういう時代になっていくのだ。