今朝、電車の中吊り広告に、「歌手と二足のわらじを履く美人芥川賞作家誕生!」(川上未映子の文庫本用の宣伝。でも彼女が芥川賞をとったのはだいぶ前の筈)とキャッチコピーがあった。歌手も美人も文学には関係ないことだと思うが、売るためには、なりふり構わないのか、こういうキャッチで人を誘導することができると思っているのか、それとも、事実として、こういうキャッチの方が興味を持つ人が多いのか。
文学を取りまく状況の混迷ぶりは、もうどうにもならないところまできている。本の売り上げは毎年著しく減少しているのに、昨年度の新刊の発行点数は78555点と過去最大だった。一日に200点以上の新刊がどこかから発行され、本屋に押し込まれている。そのカラクリは、なんとも酷いものだ。
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選考委員の人達のコメントを見ていたら、現在の文学産業に対する違和感がますますつのる。
例えば池澤夏樹氏は、「この話しは『アンネの日記』を読んでいなければわからないというものではない。作中の情報の提示は親切で、実はこの名作を読んで無かった僕も十分に楽しめた。」と言う。
読んでいないのに、作中の情報の提示が親切と、どうして言いきれるのだろう。作者が『アンネの日記』を歪めている可能性があるのに、そのことを気にかけなくていいのだろうか。作者が提示するアンネに関する断片的情報で、わかったつもりになって読書を楽しむこと。それが読書の楽しみであると考える人もいるだろうが、楽しむこと以前の問題として、言葉が事実を歪めることに対してどれだけ葛藤しているか。そうしたスタンスが文学者の証だと思っていたが、そうではなく、楽しめる読み物を提供することが、お仕事なのだろうか。
また、川上弘美氏は、「アンネの苦しみと、「乙女」であることについての主人公のアイデンティファイのしかたのつながりにかんしては、わたしはほんの少しの危惧を感じました。」と述べるが、この「ほんの少しの危惧」という、“ほんの少し”が意味するところはいったい何なのだろうか。けっきょく、そのことを自分ごととして引き受けて考えていないので、直感的に危惧は感じるものの、その感覚をそのまま放置して水に流しているだけのように思える。
山田詠美氏は「『スピーチでは自分の一番大事な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう作業でしか出会えへん言葉やねん』前半のこの二つの文だけで、受賞作に相応しいのでは?と嬉しくなってしまった。久しぶりに、言葉が一番!の小説を読んだ気持。机上の空論ならぬ机上の暴論が、あちこちに出現して、おもしろくって仕方なかった。小説の世界だけに存在するユーモアは希少価値。」と述べる。
まず、この小説のなかに出てくるわざとらしい表現がユーモアだと思っているところもなんだが、机上の暴論はOKとか、スピーチ云々の文だけで受賞に相応しいとか、こういう選評を読んで、まさか、その線を狙う新人が多く現れるとは思わないが、芥川賞の審査員も、ワイドショーのコメンテイターも同じようなもの(それが悪いとは言っていない)という姿を、芥川賞を舞台にさらしている。芥川賞の権威を引きずりおろすための確信犯ならば、それはそれで頭脳的であるが、果たしてどうなのだろう。
いずれにしろ、「文学者」というのは、非常に聡明で、思考に優れ、想像力が素晴らしい人達というのは幻想であるということが、次第にはっきりしてきているのかもしれない。
もちろん、なかには本当に凄い人もいるのだろうが、本当に凄い人というのは、どの分野でもそうだろうが、ほんの一握りなのだ。肩書などは、あてにならない。医者でも弁護士でも大学教授でも写真家でも画家でも文学者でもなんでもそう。
肩書や賞歴などの飾り物に騙されずに、その人自身の表現や発言や実践行動そのもので判断していく他はない。これからどんどん、そういう時代になっていくのだ。