感謝と敬意

 桜に癒されるというより、苦労して付き合っていくという感じだ、と昨日書いた。
 でも、だからこそ、一年のわずかな期間の桜の開花が待ち遠しいし、立派に咲き誇るのを見ると、惚れ惚れとするし、その瞬間を有り難く思う。
 近頃、苦労して付き合う必要のない種類の植物とか動物とか人間を選り好む人が増えている。“癒し”という言葉を使う時は、ほとんどの場合、苦労して付き合う必要がないことを前提としている。
 私はドロップアウトを重ねてきた人間だから、フリーターとかに偏見はまったくないけれど、モノゴトと苦労して付き合うことを避けるためにフリーターを選ぶ人には、首を傾げたくなることがある。そういう人が会社への就職を考える時に、我が社がやっている「旅行」とか「出版」を求めることが多く、その人達に向き合うたびに、それでいいのだろうかと、思わせられることが多いのだ。
 はっきり言って、多くの人は、「旅行」とか「出版」が、ソフトな仕事だと勘違いしている。金融とか不動産とかに比べて、軋轢や葛藤が少なく、スマートに仕事ができるだろうと。でも、「旅行」とか「出版」は、物ではなく人間相手の仕事なので、実は一番、“微妙”なのだ。人間の心の機微に疎い人や気の利かない人は向かない。ある意味で、微妙な心理的せめぎ合いがとても多い。不動産や金融よりも、単純に割り切れなく、心理的に苦労して付き合っていかなければならない仕事なのだ。そして、その苦労を超えたところに、一瞬の間だけ咲く桜のような喜びと感謝がある。
 にもかかわらず、そこらあたりの機微がわからない人が、「旅行」や「出版」を志望する。そしてその動機が、「いろいろ勉強できるから」などと、つまらないことを考えている人が多い。給与をもらって働く会社を、授業料を支払って学ぶ学校の延長だと捉えている。だからそういう人は、先輩や上司から仕事を教わることに感謝の気持ちは薄い。金融とか不動産なら、職場で教わった知恵で自分がより稼げるようになるのだと認識できるので、それはとても有り難いことだと感じることができるが、「旅行」や「出版」は、教わることで自分が少し賢くなる(成長するという言う人もいる)くらいの認識しかないので、教える側のエネルギーを心にかけることはない。自分が社会で生きていくための“武器”を他人から有り難くも授けられなどという発想は微塵もないことが多いのだ。それは、最初から、社会で生きるということが、桜を開花させることのようにモノゴトと苦労して付き合っていくという発想がないからだとも言える。
 感謝の気持ちというのは、生きていくのは苦労していくことだと薄々察していて、その苦労を乗りこえていく力を獲得するための機会や場を与えていただいたり、苦労を超える喜びを感じさせていただいたりして、そのことを強く自覚出来るからこそ感じられるものだと思う。自分の快不快しか意識にない場合は、楽しかったとかつまらなかったという印象だけが残り、人に感謝するという気持ちは芽生えないだろう。 
 いろいろとフリーターを採用してきて思うのは、「成長したい」という気持ちはあることはあって、それは嘘ではないと思うが、人の好意に対する反応が鈍いことが多く、その人間心理に対する無頓着さが、結果として、「旅行」や「出版」という人間相手の仕事に支障となり、成長できないという皮肉なことが起こる。
 自分に力が足りない。うまくいかない。そのことに対して自分を情けなく思うし反省もする。しかし、けっきょく誰かがそれをカバーしたり、手をさしのべたり、知恵を伝授したり、時間を割き、エネルギーを注いで付き合っても、そのことに対する申し訳ないという感情がとても希薄なことが多い。もし、人に迷惑をかけたくないという気持が強ければ、もう少し自分を追い込めることがあっても、そうではなく、自己卑下とか自己憐憫とかで終わってしまうので、何も変化が起こらない。
 戦後、経済成長に対する強い願望があった。それが一服した今、自己成長に対する願望を強く持つ人は多い。その願望ゆえに、フリーターを選んでいる人も多いのだ。
 でも、自分が成長するというのはどういうことか、うまくイメージできていない人も多い。古風な言い方になってしまうが、モノゴトに対する有り難みや敬意を抱くことが、その第一歩のような気がする。それがない人間関係は、スカスカで、気分が悪い。
 とくに、「旅行業」という顧客の心証次第という商いや、「出版業」などの表現行為にとって、それは“命”ではないかと思う。