働く魅力!?

  昨日の夜フリーターのことを書いたら、今朝の朝日新聞で、「フリーターを20万人減らせ」というキャッチで、05年度中に20万人のフリーターを正社員などの定職に就かせる方針を厚生労働省が決めた旨の記事が掲載されていた。
 そのなかで、大学の労働経済学が専門という教授が、「フリーターの問題は社会に問題がある。誰でも取り換えのきくマニュアル化された仕事では希望や誇りをもてない。働くことを身近に考える教育も欠けている。若者に説くのではなく、産業界や教育界は自分たちの問題として考え直してほしい。」というコメントを載せていた。
 こういうのを読むと、これを言っている人は、社会で働いたことがないのだろうな、もしかしたらアルバイトすらやったことがないのではないか、と思ってしまう。
 というのは、誰でも取り換えのきくマニュアル化された仕事というのは、コンビニとか飲食チェーンに代表されるように、フリーターの人が主に従事している仕事の方にこそ、見られる傾向だからだ。
 今日の産業界で正社員に求められている仕事は、誰でも取り換えのきくマニュアル化されたものではない。むしろ、そういった仕事をフリーターにやってもらって、創造的なダイナミズムのある仕事を、正社員に要求している。その種の仕事は、きちんとできるようになれば希望や誇りを持てるのかもしれないが、ハードルが高い。人の何倍も精進しなければならない。いろいろな軋轢や葛藤や自己嫌悪に晒されることになって、心理的負荷が大きい。その負荷に耐えることより、マニュアル化された作業の思考停止状態の方が気が楽で、それである程度お金がもらえればいいという人が多いのが現実なのだ。そして、一番いいのは、思考停止状態で楽で、傍目にかっこいい仕事ということになってしまう。
 例えば、今日の町工場などは、専門技術に特化しているわけだから、誰でも取り換えのきくマニュアル化された仕事をしているわけではない。そういう創造的な仕事をしたければ、フリーターをやめて、工場で専門技術を身につけた方が得策だ。でも、多くのフリーターは、その選択をしない。
 誰でも取り換えのきくマニュアル化された仕事というのは、一個人の責任も軽くなる。だから、その方が気が楽でいい。そう考える人が、フリーターの多くを占めているのではないか。
 「働く魅力を欠く社会にも問題」という言い方は、朝日新聞の好きな表現だが、その社会っていったい何を指しているの? 産業界や教育界って、具体的に何を指しているの?と問いたい。言葉になっているとそこに具体的な実態があるような錯覚を起こすが、そうした表現は、産業界や教育界や社会を代表するような顔をして、深刻ぶって会議だけをしている人たちだけのことを指しているのではないか。「自分たちの問題として考え直してほしい」という”自分たち”のなかに、その表現者自身が入っておらず、一番当事者意識が弱い。
 私が思うに、働くこと、生きることは、不確定要素のなかで奮闘し、せめぎ合うことだと思う。子供は、不確定要素のなかで日々生きて、いろいろなこととせめぎ合っているから、生き生きとしている。
 不確定要素のなかで奮闘せずに、わかったような言葉で結論づけたり、せめぎ合うことを野蛮だと冷めた目で見る良識的知識人が、間違った空気をはびこらせているのではないか。
 ライブドアとフジテレビの問題にしても、ライブドアのやり方が「紳士的でない」「お金があればなんでもできるという考えは間違っている」などという薄っぺらい観点で論じる良識的知識人が多いが、あれも命の一つのせめぎ合いなのだ。不確定要素のなかで奮闘するチャレンジなのだ。無難なポジショニングで、澄ました顔で、わかりきったようなことばかり並べ立てて、時代がよい方向に動くことを願っているなどと口にする厚顔無恥の欺瞞には、辟易とする。
 強制的に、せめぎ合うことや、不確定要素のなかで奮闘することを奨励しようというのではない。しかし、子供がなぜ生き生きとしているのか考えれば、人間にとって、そういう状態の方が、本質的に楽しいからなのだ。狡っ辛い分別よりも、その方が、快感なのだ。

 働くことを身近に考える教育ではなく、不確定のなかで奮闘し、せめぎ合う辛さを超えた”快感”を体験することが一番大事だろう。

 その”快感”を知らない人の言論が増えれば増えるほど、大事なことが見えにくくなるのではないだろうか。

 「風の旅人」8月号のテーマ”人間の命”は、上に述べたようなことを下地に考えている。