桜との付き合い

 今年の桜は、あっという間に咲いて、あっという間に散ってしまった。
 花粉症の期間が、2ヶ月も続き、一年でもっとも気分良く過ごせる筈の時期を憂鬱なものにするのに対し、桜の花の季節の短いこと・・・。
 一昨日、「風の旅人」の制作関係者などを招いて、我が家で花見をしたのだけれど、昨日の午後の強い風でほとんどが散ってしまった。先週の週末はまだ蕾だったので、花見ができる週末は、4月9、10日だけだった。散った桜の花びらの掃除はけっこう大変だし、まもなくすると、虫除けの薬をまかなければならない。一昨年は薬が枝の先端まで届かなくて、そこだけが毛虫に食われてしまった。そして、もう食うところがなくなって他を探そうとする毛虫たちが、列を成して一本の真っ黒な棒のようになってゾロゾロと木を降りてきた。たぶん、鳥を警戒してだと思うが、離れて見ると、大きな黒い蛇のような形なのだ。毛虫は、全身が黒く、部分的に赤が混じり、毒々しいイメージで、それが集団で動くのを見るのは、なんともおぞましいかぎりだ。
 また、昨年も一昨年も、新しい枝の生長が著しく、風通しが悪くなるので、切り落とす必要があった。葉が生い茂った三本の桜の枝を切り落とすと、庭が葉と枝で埋まる。
 そして、秋になると、ものすごい量の葉っぱが落ちてきて、掃除がまた大変だ。
 桜は、ほんの限られた期間だけ喜びを与えてくれるが、その時以外は、始終手入れをしなければならない。
 桜に癒されるというより、桜と苦労して付き合っていくという感じだ。

 以前、朝日新聞天声人語で、自然から離れていった人間が、自然を麗しいものとしてではなく、花粉症などを通じて忌まわしいものとしてしか感じられないのは皮肉なものだというようなことを書いていた。しかし、私が思うに、もともと自然と人間の関係というのは、居心地よいものではなく、せめぎ合いながら、なんとか折り合える場所を見つけて付き合っていくものなのではないか。
 毛虫だって、生きるために必死で、その必死の様子を他人が見るとおぞましい。
 杉も、荒廃した日本の森林のなかで、子孫を増やそうと必死になって花粉を生産しているわけだし、人間の身体も、侵入する異分子を排除しようと必死になって反応しているわけで、生き物が生きるということは、傍から見るとおぞましいまでの迫力で自分の持ち分を発揮しながら、自分以外のもの(人間の場合、自分が他者として認識する自分自身も含めて)とどう付き合ったり折り合っていくかということなのかもしれない。