拠り所とは?

アクエリアン様
 コメント有り難うございます。
 プロテスタントは、「聖書」に明文化された「言葉」そのものを重視しています。そして、カトリックは、「聖書」を肉体化していると認識される聖人とか聖職者の言動を重視しています。キリスト教会のほとんどは、土着宗教の聖地の上に建てられ、土着の多神教の神々への信仰を複数の聖人信仰にすりかえるということが行われていますが、それでもやはりカトリック信仰の「世界の体系化」は、「聖書」に基づいて行われています。その信徒は、たとえ「聖書」の条文そのものを拠り所にしていなくても、「聖書」の裏付けによって世界が秩序づけられ、その安定!?した世界に生きていられることを拠り所にしているのではないかと思います。
 プロテスタント、とりわけ今日のアメリカに見られるような「聖書主義」は、「文脈」に対する想像力が失われた結果としての「条文至上主義」であり、彼等がカトリックよりも「聖書」に近い位置にいるとは到底言えないと思います。

 9条は、とても理念的な条文です。「理念」というのは、企業活動の場合もそうですが、日常的な活動のなかでは特に意識されていないけれど、根っこの部分にそれがあるということが、拠り所になるのだと思います。最高法というのは、そういうものであるべきではないかというのが、私の考えです。
 しかし、現状の「憲法」は、そういうものばかりではありません。じっくり時間をかけて作ることができなかったので、「戦争放棄」という大事な理念だけはしっかり押さえて、後は、突貫工事だったのではないかと思うところもあるのです。
 特に、第一章「天皇」から始まり、そこに理念ではなく、いろいろな「取り決め」が書かれているところに、私は違和感を覚えます。国会のところも、「理念」と、細かな「取り決め」が混在します。もちろん、その「取り決め」が「理念」と直結しているのならば話しは別ですが、その当時の特殊な状況が反映されているのではないかと思うのです。
 とりわけ、「天皇」から始まる日本国憲法に触れる若者は、この憲法を、自分事としての”理想”と考えることができるかどうか、疑問に感じます。
 こうした部分は、やはり冷静に議論した方がいいのではないかと思います。
 そうした議論は、重い憲法にする為のものではなく、日常では忘れられがちだけど、根っこにしっかりある”理想へのベクトル”を改めて探していこうとする行為です。それは企業の創業理念のようなもので、そこに達して安心するための目標ではなく、生涯追究し続ける行動指針のようなものです。
 企業の場合、そこで働く社員が何のために働くのか、というのが「理念」であって、その理念に共感できることが大事で、その理念を抱くことが”拠り所”です。ですから、他人と、どちらの”拠り所”が正しいか争うのではなく、その”拠り所”を元に、その拠り所を自分なりにどう具現化するか、ということを問い続けながら生きていくことが、一人一人の人生になっていきます。
 「風の旅人」のFIND THE ROOTを、「五体投地」といったのは、そういう意味です。チベットの高地で、地面に身を投げ出しながら、一歩一歩、尺取り虫のように進んでいく人間にとっての”拠り所”は、宗教教典の条文ではないでしょうし、もちろん、誰かとその”拠り所”の優劣を競う意味もありません。拠り所は、”祈り”であり、それが拠り所であるからといって、スタスタと足早に目指す方向に向かって辿り着いて安心するのではなく、一回一回、目指す方向に自分の身体を投げ出す、一見、不合理とも見える行為の積み重ねのプロセスそのものが大事であり、もしかしたらそれが全てということです。
 しかし、その五体投地も、聖地に向かうものではなく、とりあえず、適当に、その辺でやっている、というものになってしまうと、見ている方も、やっている当人も、大切な何かが希薄化していく気分になってしまいます。人それぞれだから、と無関心を装うのも簡単だけれど、何かしっくりこないものが残ります。
 五体投地において「目指す聖地」という拠り所が必要なように、「風の旅人」にも必要ですし、人間活動全般に、そういうものが必要なのではないかという気がします。その拠り所は、安住の場ということではなく、自分を戒めても、そちらに進んでいきたいと思わせる「理想」であり、その「理想」へのベクトルを示すことが「理念」だと思うのです。
 私の言う「立ち帰る場所」というのは、そういう「理念」のことです。
 しかし、「理想」とか「理念」とか「拠り所」というものは、矮小化され固定化される危険性を常に孕んでいます。人間はそうした愚行を繰り返し行ってきましたから、戦後の教育および知識人は、特にそういうことに神経質になってきました。しかし、その結果として、また別の何かを失ってしまったことも確かであり、もしかしたら、過去における幾たびかの愚行よりも深刻な状態に成りつつあるかもしれません。
 軋轢とか葛藤に対する抵抗力の減少や、現実と理想との間の距離感覚の喪失は、自暴自棄、自傷、閉じこもり等々、人間生命をネガティブな方向に向かわせています。そうなった理由を、経済至上主義とか、家庭での父親の役割などといって単純に論じる人もいますが、そう簡単なものではないと思います。
 今日の言論は、「保守的な右」と「保守的な左」の不毛の言い争いで満ちあふれています。そこから別の基軸で、勇気をもって新しい議論を始めようとする人を、「新保守」とカテゴライズすることもまた不毛なのですが、今日の言論は、そうした不毛のカテゴライズも大好きなので、新しい芽が育つための土壌がどんどん痩せていくような息苦しさを感じます。