柔軟な公共性

 最近、ブログに関わる小さなアクシデントがあり、いろいろ思うことがあった。
 某新聞社からコラムの依頼があり、書き上げたのだが、掲載の前日になって、私のブログに同じ内容のことが書かれていることを新聞社の担当者が知り、掲載が中止になった。その理由は、新聞というのは初出が原則で、他の媒体で出されたものを新聞に掲載することができないという。私は、新聞社から依頼を受けた時、テーマが、「今の日本社会について思うこと」だったので、そのことを念頭に置いて、その日のブログに書き込んだ。”もののあはれ”について書いた記事がそれだ。それで新聞は文字数とかに制限があるので、文章を削ったり、文章を削ると他の部分の言い回しを変えなければ意味が通じなくなるのでその部分を書き直したりして、提出した。
 でも新聞社にすれば、ブログも一つの表現媒体だから、そこで紹介された内容のものは発表できないという。
 私は、日頃考えているようなことをそのまま文章にしただけなので、無駄なことをしたとか、コラムがなくなって残念だとか、新聞社に対する怒りとかは、全然感じない。それよりも、新聞という媒体が現在背負っている構造的宿命に対して、懸念をもった。
 「風の旅人」であれば、初出であるかどうか、まったく気にしない。たとえば白川静先生の原稿をいただく際、私には解読不能な文字があって、それが古代のことに言及している時などは文脈からも内容が判明せず、かといって先生に確認するのも恥ずかしいので、先生が過去の本のどこかに似たようなことが書かれているだろうと見当をつけて読みあさったりする。すると、やはり同じ内容のことが書かれている。
 私は、その内容を、10年前に出しても、現在出しても通用するということが凄いことだと思う。
 あと、同じ内容のことでも、編集構成の仕方によって、受けとめられ方が異なってくる。媒体によって、読者も異なるし、読まれ方も異なる。どういう人にどういう読まれ方をするのか配慮して仕事をすることは、編集にとって、とても大事なことだ。編集は、原稿記事の発注と進捗管理と原稿の整理が仕事なのではなく、アレンジャーであるべきだから(と私は思っている)。アレンジの仕方によって、同じ内容のものでも、見え方、感じ方が全然異なってくる(と私は思っている)。
 そうしたことは、「風の旅人」の編集の考え方だが、新聞も同じだと考えてはいけないということを私はわかっていなかった。
 新聞の編集はアレンジという表現者の介入があってはならないのだ。”客観的事実”の列挙。編集の仕方によって、見え方や感じ方が変わるということはあってはならない。正義は常に正義でなければならないし、悪もしかりだ。自分の立ち位置によって変わることがあってはならないのだ。だから、判断の基準も、誰にとっても明確である必要がある。
 初出でなければならない、ということもそうだ。誰が判断しても同じ結果になる明確な基準。そこには、編集者の好みや感情や価値観や能力が介入する余地はない。誰でも同じ判断ができる基準というのは、コンピューターに判断させることができる基準でもある。また、先生の微妙な価値感や能力の違いが査定に影響が出ては困るということで、試験をマークシート式にすることも同じだろう。
 新聞というのは公共のものだから、フェアでなくてはならない。だから、全ての人が共有できる判断基準に基づいて、作らなければならない。
 新聞社の方は、今回のことは、ブログという新しい媒体に対する私と新聞社側の認識の違いだと捉えているみたいだが、私は、そういうことはどうでもよく、新聞という公共性を求められる媒体が抱えている構造的な問題に思いをはせることになった。
 マークシート試験、初出かどうかを重視すること、官僚がつくった法律を官僚の解釈に基づいて運用すること・・・・、その延長線上に見えてくるのは、内実は問われず、直観的判断などは愚の骨頂とされ、個人の意欲や感情やモチベーションは重視されない無機的で機械的で平均的で、のっぺりとした社会だろう。
 しかし、そうしたことは、悪意があってなされているのではなく、責任意識からそうなってしまうことが重要なのだ。公共のことを、誰もが共有できるわかりやすい基準で運営せず、個人が解釈して行っていくと、混乱もするし、統制もきかなくなるし、一部の者からの苦情も激しくなるだろう。極端になると独善と専横になってしまう。
 公共性というものを維持しながら人間が人間らしく生きていける柔軟な社会となるためにどうすればいいのか?
 政府や官僚をはじめ、特定のターゲットを批判すれば解決する問題ではなく、新しい文脈を、一人一人が自分ごととして切実に考えていかなければ、何も変わらないだろう。