ガラスの壁と、人生

 昨日、私がブログで書いたことを受けて、千人印の歩行器で葉っぱさんが記事を書いていますが、透明なガラスのなかの蚤の話は、私もとてもよくわかる。公共性というのは、1%の確率のトラブルを避けるための無難な選択、前例主義、自己規制によって成立するものだと、常々実感する。時には、やりきれなく思いますが、やむを得ないところもあるのだろう。99%うまくいっていても、1%の失敗でマスコミから猛烈に批判を受けるわけで、そこにあるかもしれない透明なガラスに怯えながらやるのがちょうどいいのかもしれない。
 私が取材したアルツハイマー病の独居老人も、町の福祉課には情報が入っていたが、年金課の担当者は、状況とは関係なく、ルールに従って、毎月、誰も使わない指定口座に決まった金額を振り込み続けていた。その結果、300万円貯まっていたのに、その老人は、銀行から引き出す術がわからず、無一文で生活するはめになっていた。そして、その老人の甥御さんが、役場に掛け合って年金がどこに振り込まれているか確認しようとしたが、本人以外には教えることが出来ないと拒否されたのだった。
 その後、介護会社の介護を受けることになっても、介護保険法では、介護会社が要介護者の現金を管理することは許されていないので、アルツハイマー病の独居老人が金銭管理をしなくてはならず、それは常識的にも無理なのだが、法的には対処の方法がない。
 そうしたお役所の対応を柔軟性に欠けると非難することは簡単だが、もし、そのあたりのルールを甘くすると、必ずそこに付け込む悪徳業者が生まれるわけで、役所というのは、不特定多数の大勢を相手にしながら巨大な不確実性を確実に管理できる方法で仕事をしなければならず、柔軟性がなくて当たり前なのかもしれない。
 だから、公的な活動を行う組織の振る舞いを見て、世の中すべてがそうなのだと窮屈に思うばかりでなく、公共性というのは、そういうものでよくて、そうした逆説的な意味での必要悪を認め、それに左右されない柔軟性を別のかたちで作り上げることが必要だと思う。
 ブログやインターネットというのは、その鍵を握っているような気がする。 ブログというのは、新聞と違って、間違っていることを書いてはいけない媒体ではなく、試行錯誤が許されると私は思う。昨日書いたことと、今日書いていることが逆になってもかまわない。読む人も、そのつもりで読み、解釈とか判断はそれぞれの自由。それぞれの解釈に従ってアレンジを行い、新たに自分の表現に発展させることも自由。そのように情報表現が選別されながら消失したり増幅したりしていく。そして、読み手の判断にゆだねられるということで、自動的に牽制もされている。
 公的なものは、目に見えない、何を考えているかわからない全ての人と関係を持つ(あるのかないのかわからない)ガラスの壁のなかで行われることが前提になっているけれど、私たちが生きている世界は、すべてがそうなっているのではなく、人と人、人と物、人と自然、人と情報表現の間に呼応関係が成り成つ世界も存在し、もともと、私たちの日常の多くは、その呼応時間のなかで成立している。
 それがおかしくなっている原因は、自分の身の周りの人やモノとの関係のなかにも、公的な視点を持ち込んでしまうからだろう。
 たとえば、一人一人の日常のなかで、愛でたり、手で触れたりすることのできるリアルなものが本来の自然なのだけれど、公的な概念として「自然保護」という意識が一人歩きすると、知らないうちにガラスの壁ができて、自然との本当の距離感がわからなくなってしまう。
 おそらく自分の将来を考える若者にしてもしかりで、公的な概念として一人歩きしてしまう「現実社会」というガラスの壁によって、自分のリアルな人生がわからなくなってしまい、世間受けのいい大学とか、流行の職業とか、安定していると言われる職業とか、親が喜ぶ職業とか、自分の内実と関係ない人生設計をしてしまう人が多い。
 見えないガラスを必要以上に恐れて自己規制するのではなく、自分が感じるリアルな反応を踏まえて、その都度修正していける自由度を持つことが、自然の理に適っている。
 社会や企業にそうした柔軟性があるかどうか、受け入れのシステムがあるかどうか、ということがよく議論されるが、そうしたことを公共に求める思考が既に公共的で、公共も、公共を批判する者も、「自分たちが生きている世界は公的な一つのもの」という目に見えないガラスの壁のなかで、物事を発想してしまっているのではないだろうか。

 たとえば、最近、企業内の鬱病に関する問題で、社員は貴重な人材だから、10年後、20年後の企業発展のことを考えて、今こそ、鬱病の社員を受け入れるシステムを構築すべきだ、と無茶苦茶なことを言う自称専門家がいる。
 10年後まで楽々生き残れると考えている企業が、どれほどあるのだろう。
 こういう人は、まず自分がそういう会社をつくるべきなのだ。そして、メディアは、それを実行して実現している人の意見を聞くべきなのだ。言うだけなら、誰でも言えてしまうのだから。

 また、鬱病受け入れのシステムを構築すべきだという発想じたいが、鬱病の人に対しても、全ての人が共有する一つの公共社会のなかで生きていかなければならないというプレッシャーを与えることになるのではないか。気遣われたりそうでなかったりする違いはあるけれど、どちらも基本的に同じで、そこで生きていかなければならないという心理的縛りこそが、鬱病につながるように私は思う。おそらく、鬱病になる人というのは、自分が特別に配慮されていると思うだけでも、鬱になるような気がする。
 そもそも、一つの公共社会に期待したり依存したり、それが全てだと思って縛られてしまう発想のなかに、病の原因があると私は思う。
 行き詰まった時には、人に気をつかったり、人に気を遣われながら頑張るよりは、半年間、南の島に行って、のんびり生活して何が悪いんじゃ、みたいな発想でいいのではと思う。
 私は自分の子供が引き籠もりになったら、即刻、別の空気がある世界に行こうと考えている。三ヶ月でも半年でも一年でも何年かかってでも、人生には公共のガラスの壁とは別の世界があり、その部分を大切にすることも許されて、かつ大切なことであると子供が気づくまで、一緒に世界を放浪しようと思う。
  23年前、自分が人生に行き詰まった時、どこかで野垂れ死にしてもいいや、という覚悟で、2年間、世界を放浪した時のように。
 自分の子供がそうなってみないと、きっちりしたことは言えないけれど、そうならない間も、そのように考え続けている。