第892回 自分の不運や不遇や不利益よりも

  若い友人が、精神病院の務めを辞めて、今年の春からインドに旅に出ると言う。ちょうど去年の今頃、自分なんかいてもいなくても同じだから、死んだ方がましだと言っていた。

 恋人もいないし、仕事場に友人はいない、きっと誰も自分を必要としていない、そんな自分が、この世界に存在する意味がないと、彼は言っていた。
 彼は寂しかった。寂しかったけれど、寂しいと言わなかった。そして彼が選択した道は、もっと寂しくなるかもしれない方向に歩き始めることだった。寂しいという感覚すら忘れてしまうくらい思い切り環境を変えてしまおう。
 死ぬことも、もしかしたらそういうことかもしれない。そうだとすると、本当に死ぬ前に、死を少しは体験できるかもしれない。だからかどうか、彼はインドに旅立つことにした。行ってからのことや、帰ってからのことを考えるのは無意味だ。死ぬことは、死んでみなければわからない入り口に立つことで、旅することもまた、それに近いから。
 若い友人は、おそらく不安でいっぱいだろうけれど、そう心に決めたようだ。

 

 若い友人の医者が、病院を辞めて、訪問医療のクリニックをつくった。

 ずっと前から大病院での医療に疑問をもっていて、人々が毎日の暮らしを営んでいる家での医療行為を志していた。

 でも、結婚して、子供ができて、大病院を離れることに不安を感じていた。 一軒ずつ訪問していく訪問医療は、一日に診察できる人の数が限られている。だから収入も大きく減ってしまう。妻と幼い子供を養っていくことができるかどうか、若い医者は悩んでいた。
 でも、病院のベッドの上で、毎日、薬を処方するだけの医療を続けて、少しずつ衰えていって最後には死ぬという寿命の伸ばし方が、はたして人生の最後に相応しいものなのかという疑問は消えなかった。
 人を幸福にしたいという思いで医者になったのだから、その考えに添った医療を行ないたい。自分の中に疑問を抱え込んだまま生きるよりは、自分が考えに考えぬいて見つけ出した道を生きよう。若い友人は、おそらく不安でいっぱいだろうけれど、そう心に決めたようだ。



 一緒に働いていた若い友人が、重い腎臓病にかかってしまった。腎臓の細胞は、一度死んでしまうと、元には戻らない。だから、完全な治療というものができず、病気の進行を緩めることしかできない。食事に気を配り、できるだけ心身に負担をかけないように慎重に、一日一日を送っていかなければならない。
 それでも腎臓の炎症は進んでいるので、このままだと腎臓が使い物にならなくなるよと医者に促され、気が向かないまま、扁桃腺摘出や、ステロイドの投薬に踏み切った。
 同時に、ステロイドの副作用で免疫力が下がるので、その予防薬、血糖が上がりやすくなるので、それを抑える薬、大量の薬で胃が荒れるので、胃を整える薬、なんの治療をしているのかわからないほど、いろいろな薬を飲んでいる。
 そんな暮らしのなかで、できれば薬に頼らずに治療をしたいと、身体の中から声がささやく。気の流れを意識し、呼吸や食事、運動に気をつけていこうよ。玄米や雑穀米、野菜をたっぷりととって、身体がおいしいと喜ぶような食べ方をしていこうよと。
 健康だった時は、身体を、自分の従属物のように感じ、あまり気づかってこなかったけれど、病気になったことで、身体の声に耳を傾けるようになった。身体の声を聞くようになって、世界の見え方も変わってきた。価値観も随分と変わり、生きるのが楽になったと、若い友人は言う。

 重い病気になることで生きることが楽になるという逆説が人生には起こるのだ。
 人が羨むような成功を遂げて生きることが苦になる人もいる。
 どん底まで行き、失うものが何もなくなることで、心が晴れ晴れとするということもある。

 フランスで飛行機が墜落した。若い副操縦士が、多くの人を巻き添えにして、故意に飛行機を墜落させたとみられている。彼は、かつて鬱病を患い、最近では恋人との関係を悩んでいた。また、飛行機の操縦士にとって重要な視力の低下を、会社に隠していたという報道もあった。

 彼は、子供の頃からパイロットになることが夢だったらしい。
 周りからは、優秀だと判断され、順調に人生を歩んでいるようにも見えていた。
 何が彼を絶望させ、何が彼を鬱病へと追い込み、多くの人々を道連れにするという行動をとらせてしまったのか。犠牲になった人のなかには、幸福の絶頂にいた人もいたかもしれない。
 自分の人生に絶望した一人の男が衝動的にとった行動によって、多くの人の命が奪われ、その何倍もの人達が、大切な人を奪われた無念に打ち拉がれている。
 その不条理に比べれば、自分一人の人生における無念さなど、たかがしれているのに。
 
 自分の不運や不遇や不利益しか見えなくなると、
 人間は、人間が持っている一番美しいものを失っていく。
 自分のことを後回しにできるという良心と、

 周りの評価とは関係なく、自分で自分を評価できる尊厳を。

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