ガラスの壁(続)

 ガラスの壁に関する話しの続き・・・・。
 「風の旅人」編集部の新人スタッフが、母校である高校の先生や生徒に見てもらおうと、「風の旅人」を無料で送ったのだが、本日、電話で、彼女の恩師が、「校長先生(50代の女性)が、不謹慎なものが写っているから生徒に見せることができないと言っている」と伝えてきた。
 いったいなんのことだろうと思って確認したところ、どうも第七号の特集、「母なる大地」で掲載されている「森の民、ピグミー」の写真のことを言っているのだった。ピグミーが上半身裸で、しかも、母親が赤ん坊に授乳している写真もあり、そんなものを高校生に見せられないのだそうだ。
 ちょっと本気で言っているとは思えないような意見で、とてもびっくりした。その話しを伝えてきたのが、新人スタッフの恩師なのだが、その先生は、校長先生の意見に同意しているのかどうかわからないが、「校長先生がそう言っているので・・」と、そのまま右から左にメッセージを伝えている。そこに自分の意見や解釈はないし、悪意もない。おそらく、校長先生も、そのメッセージを忠実に運ぶ先生も、自分のことを善良で良識のある人間だと思っていることだろう。
 そしてまた、我が新人スタッフも情けないことに、「先生、その考えはちょっとおかしいんではないですか」と食らいつくこともできず、「そうですかあ」と、相手に合わせてしまっている。いたずらに先生との間に軋轢や衝突をつくらず、その場をやり過ごしてしまうわけだ。
 どちらが正しいとか間違っているとかではなく、自分のなかに簡単には譲れない大事なことがあって、それが侵されたり損なわれることに対して、「それはおかしいんではないか」と抗い、その気持ちを伝えようとする意思のなかに、表現活動の根があると私は思っている。
 独善的と思われるかもしれないが、「人それぞれなのよ」と斜めにかわすことはできないし、それができるくらいなら、表現を行う必然性は自分のなかにない。
 編集の仕事に携わりたい人は、編集行為そのものを目的化して表現すべきことを後から探す人が多いが、私は、逆だ。自分にとって表現すべき根拠は、混沌としながらも自分のなかに既に切実にあって、その伝達方法として雑誌編集を行っているにすぎない。その根拠の一つが、今日起こった類のことに対するやりきれなさや怒りだ。それは、私が自分の学生時代にも感じていて、その後も今も、形を変えて、いろいろなところに垣間見える。
 
 ピグミーの人々の裸を不謹慎で高校生に見せられないという人は、別のところで、「ピグミーのような貧しく可愛そうな人に、手を差し伸べなければならない」と良識ぶって言うのではないか。
 もし仮に、高校生がピグミーの人々の写真をどこかで見つけて、いろいろ質問してきたら、彼らはなんと答えるのだろうか。
 「ピグミーは、未開の人たちで、文明の光で照らされていないから、裸なのよ」とでも答えるのだろうか。「恵まれている=優れている文明圏の者が、恵まれていない=劣った未開の人を助けなければならない」と子供に伝えることが、啓蒙であり、教育だと思っているのではないだろうか。
 もしかしたら、そのような深い意味はなく、裸で不謹慎だと自分が感じたから、生徒に見せない方がいいと校長先生は判断し、現場の先生もまた、深く考えず、疑問も持たず、校長に従っただけかもしれない。しかし、そのように一方向からの良識のバリアの中に高校生を閉じ込めようとするのはいいが、それならば、高校生でもわかる現実社会とのギャップをどのように説明するのだろう。世の中には、校長先生が不謹慎だと思うものは溢れており、生徒は、それらに簡単に接触できる。裸という理由だけで同じカテゴリーで括り、見えないところに追いやるのではなく、きっちりと見せるべきことは見せながら、ものごとを峻別する訓練をさせることの方が大事だ。自分で感じたり考えたりする力を育まなければ、学校という傘の下を出た後に、若者は氾濫する無差別な情報のなかで溺れてしまうだろう。
 それ以前の問題として、ピグミーの裸を不謹慎だと言う先生の感性は、これ以外のところでも表出するだろうから、もしかしたら先生よりも世の中を知っている生徒は、先生のことを馬鹿にして相手にしなくなってしまうかもしれない。
 さらに問題は別のところにもある。学校で評価される良い子の多くは、先生に従順で、先生の言うことを真に受けて、学業成績もよく、いい大学に入ったりする。この生徒が、実社会に出ると、それまで頭のなかだけで整理整頓してきた良識で対応できない様々な障壁にぶちあたる。そこで挫折してしまう人もいるかもしれないし、自分なりの方法で、それを乗りこえていく人もいる。ピグミーの裸を不謹慎だなんて言っていられない生々しい現実があって、そこからが本当の人生なのだ。
 良識という名の透明なガラスに守られすぎていた生徒の方が、混沌とした実社会では不利になるかもしれない。その不利な状態であがきながら、開き直り、それが人間として生きることだと前向きにやっていければいいのだが、そうではなく、そういう現実は自分に向いていないからと、教職の道に進む人が出てくる。つまり、現実社会に対する抵抗力のない人が進んで教師になってしまう。そして、教育委員会とか校長先生の指示に従って、生徒を一方向からの良識のなかに縛る。生徒にとって、あるかないか実際にはわからない透明なガラスの壁のなかの空間が、ますます狭くなっていく。
 「それはおかしいんではないか」と声を荒げると、問題児扱いされる。不利な評価を受け、排他される。素直で従順で、先生が言っていることにあまり疑問を感じない者が、学校生活では有利になる。
 その学校生活で有利な者が、実際の社会でも有利になることが、昔は多かった。しかし、今日、国際化の波に翻弄される企業社会をはじめ、次第にそうではなくなってきた。
 だからだろうか、学校生活で有利に生きていた者が、再び学校に回帰する傾向が強くなっている。企業で数年勤めた後、もう一度勉強し直したいと言って、大学院とかに入り直したり、カリキュラムが増えた大学の臨時講師になったり、語学留学したり、教職を志す人が増えている。
 もちろん、大学院や海外留学や教職など、青春の志を持って進む人もいるが、そうではなく、実社会からの駆け込み寺にしてしまう人も多いのだ。
 学校というのは、透明なガラスに守られている聖域だ。学校で何かをしていると言えば、世間的に面目が立つ。そして、世間的な面目というものこそ、実は、ガラスの壁なのだ。
 自分で自分のまわりにたくさんガラスの壁を作り、そのなかで生きていく。壁があると息苦しいが、壁がないと不安になる。世の中が自由になればなるほど、人間は、自己規制を増やしながら、不自由になっていく生き物なのかもしれない。