桜の実

我が家の桜は、山桜で、葉と花がほぼ同時に出る。たぶん、染井吉野よりも、花の寿命が短く、あっという間に大量の花びらを降らせる。そしてすぐに、桜しべを降らせる。そして、今年は、三本の木に大量に実がなってしまった。
 昨年も一昨年も実がならなかったが、今年は春先から虫が多く、受粉が促進されたのだろうか。桜だけでなく、スモモとびわの木も果実をつけている。桜の実は、サクランボと形は似ているが、別種のものだそうだ。色は黒い。試しに味見してみたが、すっぱい。
 
 この桜の実が、今、熟して大量に落ちてくる。そのため、庭が桜の実だらけ。踏みつけてしまうと、赤い汁だらけになる。朝、掃いても、昼にはまた実だらけ。きりがない。やれやれという感じだ。

 しかし、びわの実は、みずみずしくて、甘くておいしかった。
 私の家の土地は、ちょっと斜面地になっていて、いろいろな木がいっぱい植えられている。桜も幹が苔むしていて、樹齢100年は近いだろう。
 それらの木が気に入って買った土地なので、3年前、家を建てる時、それらの木をよけるようにして建てた。建築に随分と時間がかかった。
 木は癒しだ、和みだというけれど、実際のところ、木と付き合っていくのもけっこう大変で、やれやれ、しかたないな、という感じだ。
 やれやれ、しかたないな、と思うからと言って、切ってしまえばいいというものではなく、それはあまりにも寂しい。やれやれ、しかたないな、という感じで付き合っていって、時々、嬉しい瞬間があって、どちらか一方だけということではなくて、そういう関係が、なんとなく楽しいものなのだ。

 でも、自然との付き合いで、私の感覚をはるかに超越しているのが、今日、恵比寿の写真美術館で写真展を開催していた山岳写真家の故田淵行男さんだろう。
 この展覧会は、生誕100年を記念してのもので、正直言って、写真を見るまでは、昔の人ということで、甘く見ていた。田淵さんは、ナチュラリストと呼ばれているので、そのイメージから、情緒的な自然主義者のように想像していたけれども、それはとんでもない誤解だった。
 水越武さんが師と仰ぐだけあって、さすがに自然に向ける眼差しは、敬虔で、苛烈なまでの真摯さが感じられた。自然から学ぶこと。その姿勢の徹底ぶり、集中ぶり、究め方は、セザンヌを思わせるものがあった。
 また、写真だけでなく、蝶や毛虫のデッサンも、とても素晴らしい。
 蝶や幼虫を徹底的に精密に描いているのだが、その精密さをおそろしく徹底することで、絵が生きて感じられる。山とか木の写真もまたそうで、実物よりうも生きているということが感じさせられる。これはいったいどういうことだろうか。
 生きているかそうでないかというのは、そう認識させる何ものかの力によって決定される。田淵行男の毛虫のデッサンとか山の写真を見て生きているようだと感じるその感じ方は、私が感じるリアリティによるものだ。
 私が田淵行男の写真から感じるリアリティは、物事が物事として生きて存在するリアリティだ。それは、山であれ虫であれ、自らの意思を超えた何ものかの力の働きを全身で受け止めながら、その力に対して、健気に自らの持ち分を全て発揮して存在しようとする懸命さが拮抗する時に生じるものであって、自然界には、そうした拮抗が当たり前のように存在している。
 田淵行男の観察眼は、それを見逃さない。
 写真を撮ったり、デッサンをするというのは、対象への介入であり、その介入は、愛すべき対象と、その対象が認知し得ない自らを超えた力との呼応関係を、切り取って差し出すことだ。対象が認知しえない対象の存在の奥義を表現者が掌握して差し出すからこそ、その行為は、愛のある介入となる。
 奥義を掌握することは、ものごとを究めようとする人でなければ無理なことだ。
 田淵行男は言う。
 「ものごとを究めることは、愛することであって欲しいと思う。」
 愛のない探求、そして探求のない愛、どちらか一方だけを目的化してしまうのは、対象か自分か、どちらか一方しか見えていないからであって、それは対象とも誰とも呼応しないものだから、生きたものになっていかないないのではないか。
 なぜか今はそういうものが多い。そして、今はなぜそういうものが多いのだろうか。きっと表現行為を行う動機のなかに、そうなる理由が含まれているのだろう。