それでもなお

 今朝11時頃、届いたばかりの川田順造さんの「心の風景への旅」の最終回、「甦りの川、死の川」の原稿を読む。まだ途中までしかできていないのだけれど、川田さんは、フランスとアフリカに行ってしまって、23日に帰ってきて、残りを書く。8月号に間に合わせるのは苦しいのだが、それでもなお、8月号の「人間の命」で掲載したい。この文章は、8月号と10月号の架け橋となるものだから。
 とりあえず、イメージだけを掴んでデザインを進めようと思い、途中までの原稿を読んだだけなのだが、書き出しから胸にぐさりときてしまった。凄い。
 白川静さんが、「風の旅人」の第九号において、少年の時に読んだ「ファウスト」のなかでメフィストファレスが言う「常に悪を欲し、却って善を為す、あの力の一部です」という言葉の、矛盾的な、弁証法的な世界のなかに自分があるのだという共感に似たものを感じたという話しをされ、そこから、「善悪無二。すべては数億光年の世界と同じく、人間もまた、「過程」のうちにある。その過程のうちに、現実がある。そこが人間の領域であることを、覚る外にはない。」と看破して締めくくるのだが、川田さんの今回の原稿は、そうした人間の根深い業を、白川先生とは異なる方法で、浮かびあがらせる。その手法は、客観的な描写ではなく、人間の業が自らの精神の衝動の内にも厳しく織りなされていることの自覚を持ち、そのうえで知性を持つ人間として、本来、混沌極まりない人間の情動や業や宿命を、人前に差し出すに足るなんらかの秩序へと整えていくために、おそるべき集中力と、底知れぬ情熱と、広大無辺な識見とを総動員して、狡っ辛い現実など圧倒的な勢いで蹴散らして、言葉を尽くして書くという行為のなかで全てを成就しようとするものだ。

 実はこの文章を読む前、昨日の夕方、EMMET GOWINの写真展に行ってきたのだった。「風の旅人」のVol.16(10月1日発行)の大特集で、「Holy Planet」というテーマを設定し、地球上のどこでもないどこかで、地球から宇宙に連なる自然界、物質界すべてのなかの人間を、どういった文脈で捉えようかと色々試行錯誤をしていて、それなりに形ができていたのだが、もう一押しが必要だと感じていたところに、EMMET GOWINの凄まじき写真に出会ったのだった。
 特にネバダ核実験城の、無数の散在するクレーター(爆弾投下によるもの)を上空から撮影した写真の正面に立った時は、その畏ろしいまでの美しさに私は激しく打たれた。この写真家は、地球上の自然だけでなく、ありとあらゆる人間の痕跡も含めて、壮大なスケールで、「一つのもの」として差し出す。そこに善悪の分別を差し挟む余地はない。
 地球にとっては、宇宙にとっては、すべて予定の範疇。大騒ぎしているのは、人間だけ。「環境汚染がさらにひどくなったり、こんどせんそうがおこったら、地球が壊れてしまう。私たちの大切な地球を守らなければならない」なんていうのは、うそだ。古代の地球は、今以上に炭酸ガスで充満していたし、(人間にとっての)有毒ガスもいっぱいだったし、原爆以上の打撃を与える隕石の衝突が頻繁に起きていた。
 地球も、宇宙も、人間が何をどうしようが、変わることはない。変わるものは、人間世界だけ。しかし、それも、地球や宇宙にとっては、予定内のこと。人間だって宇宙から生まれたわけだから、人間のやることなどは、あらかじめ宇宙に設定されているプログラムの範疇でしかない。
 といって、私は人間の無力を訴えたいのではない。
 EMMET GOWINの写真を見れば、誰もがその美しさを否定できないのではないかと思う。この写真を、「核実験の傷痕」というタイトルで、人類への警鐘として扱おうと思えば、敢えて美しくない写真を選ばなければならない。その一方で、芸術は政治的イデオロギーとは無関係だと言いながら、アート作品として、その構図の素晴らしさ、造形的美しさを讃える人もいるのかもしれない。しかし、そうしたものは全て欺瞞だ。
 あのクレーターは、まぎれもなく人間が地球につけた痕跡である。それを理解したうえで、そこに美を見出してしまうわれわれとはいったいなんだろうということを抜きに、あの光景を語ることはできない。
 「美しいものは、ただ美しい。言葉は不要だ」などと澄ました顔で言っている者は、感性が優れているわけでもなんでもなく、人間として真剣に考えることを放棄しているにすぎない。
 だからといって、あのクレーターの美を語る際に、人間の巨大な力を讃えて、誇ればいいという低次元の話ではない。
 そうではなく、ここまでやってしまい、そうして自らの首を締めていく人間に課せられた、やるせないまでの業というか、痛ましさのようなものが、私たちの心の”美”に通じるスイッチをONにするという歴然たる事実を認め、なぜそうなるのかを考え抜くことが大事なのだ。
  地球上にも、人間社会にも、世の中には強烈な毒はある。そして、人間には、不条理や矛盾を感じてしまう認識能力がある。その認識能力によって、自分が磨り減ってしまい、時には自暴自棄になることもある。と同時に、その認識能力によって、「困難があっても、それでもなお」何かをせざるを得ないという命が人間にはある。
 今回の川田さんの原稿を見て、昨日のGOWINの写真を見て、人間を突き動かして、「それでもなお」と前に進ませる力の、善悪を超えた宿業に、痛ましいまでの美を感じるのだが、その美が「Holy Planet」というテーマにいっそう私を導いていく。
 Holyの聖性は、たかが人間の仕業では揺るぎもしない完全なもの。善悪の分別の入り込む隙のない完全無欠な聖性の前で、他の動物は、恐怖のあまり逃げ出すかもしれないが、おそらく、人間だけが頭を垂れることができる。人間だけが持つ「困難があっても、それでもなお」という衝動は、そうした敬虔と厳粛のなかに、冷たい炎のように宿るものではないだろうか。