リスクと管理と野生の喜び

 浅間山の麓の森の中でキャンプをする。熊が出没中という立て看板が至る所にあった。

 昔は、バイクや4WDでキャンプをよくやったが、二人の小さな子供を連れてキャンプをしたのは初めてだった。

 子供たちは、テントに泊まるのが楽しみで、10日くらい前から自宅の庭にテントを張って、その中で寝たり、日中からテントの中に二人で入って遊んでいた。

 キャンプ場では、薪を割って燃やして飯盒炊さんを行い、炭火をおこして焼き肉をした。

 外の空気の中で食べるものは何でも美味いが、なぜなんだろう。火をつけるのにも苦労があり、その苦労があるから美味いのか、野外にいると、食べるという生物の本能が活性化し、唾液分泌をはじめ、身体的によい条件が整うからなのか。

 キャンプファイアーとか花火をして、子供たちはとても満足そうだった。

 キャンプは準備とかが大変なので、子供連れだと宿に泊まった方が楽だろうと行く前は思っていたが、野外の空気に心身を思いきり浸す機会が、子供にも大人にも必要なんだろうと今は思う。

 私が生まれ育ったのは、兵庫県明石市で、海の砂浜から100メートルの所だった。近くに大きな海水浴場もあったから、夏の間、毎日のように海で泳いでいた。

 海はあったが、海以外は特別に自然が豊かな土地ではなく、新幹線の駅ができたりして、新興の住宅地や団地が次々と建てられていた。

 私はその中途半端な町が嫌いで、いつも退屈していた。だから海に行った。海が好きだとは思っていなかったと思うが、海で泳ぎ、熱い砂の上で走ったり寝ころんだりして夕方迄時間を過ごすと、心地よい疲れに満たされ、それが気持ちよかった。

 なぜかわからないが、子供の頃は心地よい疲れが必要だったのではないかと思う。

 心地よい疲れを得るためには、身体と心を全開した状態で活動しなければならない。どこかに栓をしたまま何かをしても、僅かなしこりが残って心地よい疲れにはならない。

 思いきり遊ぶことや、思いきり仕事をすることは、簡単なようで、そうではない。

 私の子供たちは、小さな身体のどこにそれだけのエネルギーがあるものだなあと感心するくらい、走りまわり、いろいろな遊びをやっていたが、食事の後、横になるとすぐに寝入ってしまった。そして、朝になると爽快な顔をしている。子供って、本当に健康だなあと感心する。

 私は、子供たちと妻が寝た後、森の中で1人でビールを飲んでいた。

 普段1時とか2時にならないと寝ない私は、いくらキャンプに来ても、9時とか10時には眠れないのだ。

 そして、静まりかえった森の中で1人でビールを飲みながら、自分が東京でやっている仕事は、チマチマしたことに付きまとわれているなあ、心地良い疲れというのとは違うなあと思うのだった。

 心地悪さを常に心の片隅に抱き、いろいろな関係性のなかでバランスを取りながら生きていくというのは、人間が大人になっていくうえで身につけた知恵だが、その知恵はいったい何を目指すためのものなのだろう。

 仕事をしていて、時々軋轢を感じることは、「誤解をおそれるスタンス」についてだ。

 企業を相手に仕事をする場合、何かモノをつくっていても、モノの良し悪し以上に、「意味を誤解する人がいるんじゃないだろうか」「イメージがよく伝わるだろうか」「効果的にイメージが伝わるだろうか」ということが第一に議論されることが多い。

 人間というのは、コミュニケーションの生き物だから、誤解なくイメージを共有するための努力を一生懸命に行う。

 しかし、誰にでも当てはまる表現というのは難しいし、事前に予想できない異論や反論への備えを優先するということになると、どうしても、無難なものにせざるを得ない。

 無難なものというのは、けっきょくどこにでもあるようなもので、誤解はないかもしれないが、発見も感動もなく、固有性もなく、退屈極まりないものになる。

 けっきょく何のために作ったんだろうという感じになり、心地よい疲れとは程遠くなる。

 特に、美意識よりも管理責任こそが仕事だと信じる人が相手の時は、話しがどんどん細部に入り込み、重箱の隅をつつくようにリスクばかりが唱えられ、大局が見失われるが、いったんそういう流れに巻き込まれてしまうと、いくら抗弁しても埒があかなくなる。

 とくに最近のマスコミ報道などは、企業のミスに対しては過剰な攻撃を行うから、やむを得ないところもある。”管理責任”という言葉が、連日のように新聞やテレビに出てくる。数%のリスクある素晴らしいモノよりも、0%のリスクの無さが重要視される。また、少しでもリスクがある場合は、そのリスクを事前に消費者に認識させる努力をしなければならない。そのようにして、消費者はますます自力でリスクを予感したり、数%のリスクと内容の素晴らしさを自分で天秤にかけて判断することができないように啓蒙される。

 それは、人間にも僅かながら残っている筈の野生を、消滅させようとする努力だろう。

 ”管理”された状態のなかで無難にやりすごすことが目的化された社会で、人間はいったい何を目的に生きているのだろう。

 子供らしさというのは、いつも心地よい疲れのなかでスヤスヤと眠れることだ。その心地よさは、野生の喜びのような気がする。これだけの管理社会にいても、どんな子供だって、野生を備えている。

後先のことをいろいろ考える大人は、そうした野生の喜びをどんどんと失っていく。

 野生を失い、分別くさくなることが大人になることなのか?

 リスクを避けるために自分の守備範囲を小さく区切ることを優先して、少しでもリスクがありそうなことを排除し、心地悪さを代償行為でごまかしながら、無難で当たり障りのないモノを手に入れるために努力することが大人になることなのか?

 大人になるというのは、子供が享受できる単純な心地よさの変わりに、いたいけで無防備な存在を守りながら、自分が矢面に立っていく覚悟を持ち、その覚悟によって自らの心を支え、満たすことのような気がする。そして、そうした心情もまた、子供とは違う種類のものだけれど、野生の喜びだろう。

 野外生活は、自らのなかの野生を少しでも確認するために、子供よりも、むしろ大人に必要な機会なのかもしれない。




風の旅人 (Vol.21(2006))

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