ローカルに徹する凄み

 土曜日、千葉県の九十九里浜で50年近く写真を撮り続けている小関与四郎さんを訪ねた。この人は、年齢は72歳だけど、胸板厚くて腕も太く、顔を艶々としていて、50代と言われても信じてしまう壮健さを誇っている。ちょっと老け顔だけど40代ですよ、と言っても通用してしまうだろう。

 私は、これまで仙人のような写真家など個性の強い人に数多く会ってきたので免疫ができていると思うが、小関さんは、そのなかでも極めて強烈な存在感を放っていた。 

 彼は、1973年に日本写真家協会新人賞をとっているので、かなり以前から評価されている写真家ではあるけれど、写真家のなかでも知らない人が多いし、一般の人々にとっては、まったく馴染みがない存在だ。

 その理由は、小関さんが、九十九里浜を離れないところにある。写真の腕を見込んで東京の出版社から声がかかることがあっても、小関さんは、九十九里浜以外の写真を撮ろうとしなかった。徹底的に九十九里浜を撮ってきたし、その写真を自ら出版社に売り込むということすらしなかったと言う。

 小関さんは、この数十年で急激に変貌していった九十九里浜の自然と人間の生活のみを、記録し続けてきた地方限定の写真家だ。

 これだけ世界各国の風物が簡単に紹介される時代において、九十九里浜という限定されたエリアに注目する人は少ない。何か事件でもあって九十九里浜が突然注目されて、そこに関わる人が引っ張り出されることがあっても、それを取り上げる側の都合で安易に料理されてしまうから、本来の生命力を殺がれ、強烈な楔を打ち込むこともなく、すぐに忘れ去られてしまう。

 そうしたメディアのスタンスの背景には、広くたくさんの情報知識を身につけることが大事だとされる昨今の教育事情も関わっている。そうした風潮のなかでは、一つのことを深く掘り下げるということは、あまり尊ばれないし、支持もされないのだ。

 しかし、私個人の経験から言えば、世界各国を飛び回って撮影してきた人の写真を見ても、大したものが何も写っていないという事実を何度も見てきた。当人はたくさんの人や物を見ているつもりでも、その撮影者自身の視点が狭いので、どれも似たようなもの、またどこかで見たことがあるようなものになってしまう。つまり、見ているようでいて、自分の目では何も見ていない。知らず知らず、他人のイメージをコピーしてしまっている。自分で動いているつもりで、実際は、他人が作ったイメージのなかで動かされているにすぎない。でもそのことに自覚的でない。

 これと似た話を、以前、昆虫や里山の写真で広く知られる今森光彦さんとしたことがあった。今森さんは、これまで世界中の昆虫を撮り続けてきたが、最近は、近江の里山をあまり動く気になれないと言う。そして、何かの機会で屋久島など様々な地域を訪れることがあっても、そう簡単に写真を撮れないから、カメラを持ち歩かないことも多いと言う。 その理由は、対象との向き合い方がわからないからだ。

 近江の里山に長年住んで、その周辺の生態系に深く精通するようになった今森さんは、琵琶湖周辺に関しては、季節ごとに、何がどのようになっているか熟知している。天候によって、どこに行けば、どういうものに出会えるかわかっている。とはいえ、わかっていても、自分の思うようになるとは限らない。意外な驚きの方が圧倒的に多い。その意外性が表現の力になるのだが、その意外性と向き合うための方法を知っていることが大きいのだ。

 その土地に精通しているから、そうでない人が見落としてしまうものを見落とさない。関わりの弱い人なら表面だけ見て終わるところを、その裏側に豊かなものがあることを知っているので、必ず、その裏の世界に迫ろうとする。

 そういうスタンスで近江の里山と付き合っていると、近江という地域限定ではあるけれど、世界中を飛び回ることよりも遙かに豊かな世界がここにあることがわかるのだと言う。

 大事なのは、面積ではなく、表面積だ。葉っぱの一枚ずつ、木の表皮の全て、川縁の土手、水の表面と底、などなど、自分が関わる世界が、そこにあるものの表面積全てになっていくと、地図上では小さな一点でも無限の宇宙になる。

 人と付き合う場合も同じで、数多くの人間の外面だけの部分だけと付き合うことより、少数限定でも、その内面の襞襞まで付き合った方が、より大きなものになるだろう。

 自分の前を通りすぎる風景ばかり見て、たまたま自分が立ち止まった地点で、他人が作ったイメージに飼い慣らされた自分の高さから見える山や谷や街や人と関わっているだけでは、いくら移動距離が大きくても、交際関係が広くても、その関わりのなかから生まれてくる世界は貧相なものにならざるを得ない。そうしたスタンスを、フィーリングと称することがあるが、そのフィーリングとは、おそらく「自分の身体感覚」という意味ではなく、「自分にわかりやすい感覚」という意味だ。

 自分にわかりやすい感覚のものを集められて、それを見せられても、自分にわかりやすいもので囲まれることに安心を覚える人の共感を得るかもしれないが、自分を揺さぶってでも自分のなかの世界を広く深くしたいと思う人にとっては、どうでもよいものとしか見えないだろう。そういう人は、共感ではなく、感動が欲しいのだ。

 本来、感動というのは、自分を激しく揺さぶるものだと思う。

 小関さんの写真は、感動的だ。彼は、九十九里浜というローカルに徹しきっていて、写真も凄いが、独学で油絵の大作を何枚も描いており、それらの絵から漲る漁師達の生命力が素晴らしい。見ていて惚れ惚れする。彼の絵のファンはけっこういて、展覧会をすると、かなり売れて、それで食っていけると言っていた。

 「凄いですねえ」と私が感嘆しても、「凄くなんか全然ねえよ、俺にはこれしかないから」と謙遜する。謙遜していながら、「これだけは絶対に人に負けない」という自信が漲っている。「これしかない」という言葉はネガティブな気持ちなのではなく、「これだけは絶対に人に負けない」というポジティブさの反映なのだ。口に出さなくても、絵や写真を見ていれば、「これに勝てる人はいないなあ」と思わざるを得ない。技術とか知識など、後付けで要領良く手に入れる範疇のものではなく、全身全霊で何十年も打ち込んできた人にしか出せないものが滲み出ているからだ。そういうものに他の人が追いつこうと思えば、同じように何十年も全身全霊で取り組まなければならない。といっても、既に経過してしまった変化の時は二度と取り戻せないから、小関さんの取り組んだ数十年は、もう二度と同じような形で、形になることはないのだ。だから、誰も勝てない。

 勝つか負けるかという競い合いではないし、勝って何かを得るという問題なのではない。

 私が勝てないと言っているのは、その優れた固有性に敬服せざるを得ないという意味だ。おそらく人間一人一人に、才能とか関係なく、そうした資質が備わっているのだと思う。器用とか不器用という次元の問題なのではなく、歳月をかけて何かに取り組み続けることによって、不器用なら不器用なりに、その人にしか出せない何ものかが生じる。人を敬服させ感動させるのは、小手先の器用さではない。そうした賢しらな分別を超えて、その人にしか出せない強烈な何かに触れる時なのだ。

 大事なのは、その人の姿勢なのだろう。姿勢によって、感覚が研ぎ澄まされる。そして、自分の感覚を精一杯に開いて世界と関わり続けていると、地理上の大小に関係なく、どこにでも豊饒な世界があることを認識する。そうした感覚モードになってさらに取り組み続けると、そこから生まれる固有性は、「個」に閉じ込められてしまうのではなく、多くの人の心を打ち抜く普遍性に達する。

 生涯にわたってセント・ビクトワール山を描き続けたセザンヌは、20世紀絵画の父などと言われ、今では誰もローカルな画家とは認識しない。

 神は細部に宿る。そのことを知っている表現者だけが、普遍への道に立っているのだろうと思う。


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