現代芸術って?

 現代美術は、人によってわかるとか、わからないと言われる。
 わからなくてもいい、感じさえすればいいという人もいる。でも、そう言われても、何かすっきりしないものが残る。なぜかというと、感じるという感覚が無目的にそうなっているのではなく、自分の中に何かしらの意味とか目的があってそうなっているということを、人は何となくわかっているからだ。
 美しいものは、そのものが客観的に美しいからそう感じるのではない。そう感じるのは、きっと自分自身のなかに理由がある。
 今から200年ほど前、ドラクロワに代表されるロマン主義と、アングルに代表される新古典主義が激しい論争をした時代があった。どちらが「美」の正当かということではなく、その当時、アングル的なものを「美」と感じる理由を自分のなかに持つ人と、ドラクロワ的なものを「美」と感じる理由を自分の中に持つ人がいたということだ。
 あまり簡単に言ってしまうのはよくないが、ドラクロワ的なものは、理性を超える情動を重視し、アングル的なものは、情動を抑制する理性を重視しているように見える。前者は、カオスに展望を見いだそうとし、後者は、秩序に展望を見いだそうとしているのかもしれない。
 どちらの絵をより美しいと思うかは、自分自身の心の状態が影響するだろう。
 そして、現代美術である。
 現代美術に本当に感応している人は、現代美術を志している人ではないか、と私は思っている。
 表現活動を行うためには、自分が生きている世界を掌握し、その掌握した世界の自分なりのイリュージョンを表象化することが求められる。しかし、現代美術に携わる人や、それを志す人は、今日の世界を掌握できていない。掌握できていないのに、世界に対する自分なりのイリュージョンを表象化しなければならない。そうした状況での不安や焦燥や恨めしさや諦めや開き直りが、作品といわれるものになっていることが多い。そして、同じ創作の輪のなかにあって、そうした状況を共有する人が、そこに満たされないシンパシーを感じる。この構造は、現代美術にかぎらず、現代詩や現代文学でも同じだろう。その外側にいる人にとっては、まったく無関係の運動が繰り返されている。にもかかわらず、評論家と言われる人が、煙に巻いた言葉で、それらしく解説したりするものだから、その外側にいる真面目な人は、理解できない自分に少しコンプレックスを抱いたりする。
 創作の外側にいる人間も、創作活動を行っている人間と同じように、今日の世界を掌握できていない不安や焦燥や恨めしさや諦めや開き直りが自分のなかにある。しかし、そうした状態で、敢えて表現活動する理由が自分のなかにない。また、現代詩や現代文学や現代美術をわざわざ見て、自分のなかのそういう気分を再確認する必要もない。そういう気分は、自分で充分に自覚できているのだから。
 創作の外側にいる人が欲するものは、本当は、自分自身の手応えで世界を掌握できること。その可能性の予感だけでも掴むこと。それが無理なら、世界を掌握できない不安定さから、自分を一時的にでも救ってくれるもの、もしくは忘れさせてくれるもの。しかし、そのような誤魔化しを自分に許せない人は、「宗教」に走って、他人が押しつける「世界の掌握方法」にすがるしかないだろう。
 さらにその誤魔化しさえ自分に許せない人は、そうした自分の混乱状態を文章とか絵で表象化し、自分がこの世界で存在することの意義を見いだそうとする。そのようにして、現代芸術の新たな創作者がつくりだされる。こうした運動は、ぐるぐると同じ所をまわり続け、新しい世界を垣間見ることができない。
 ならばどうするのか? どうにかできるのか? 新しい世界を垣間見せる方法はあるのか?世界は、新しく掌握し直せるのか? その一つの方法が、写真表現だと私は思っている。
 今日、写真表現は、絵や音楽や文学より、低く見られている。それは、写真に携わる人の多くが、写真の本当の意味での可能性に無自覚的であったり、写真アートなどといって、他の表現活動の後追いのようなことをするからだ。
 写真は、どんな表現活動よりも現実に真摯に忠実でありながら、現実を超えた世界を垣間見せることができる。そして、その世界は見る側に押しつけるものではなく、見る側が、自ら感じとって掌握できるものなのだ。
 なのに、わざわざ現実に忠実でない方法で、現実を超えるのではなく、現実をはぐらかすモノが多いことが残念なのだ。
 中村征夫さん、野町和嘉さん、水越武さんの写真のように、現実の「実写」に徹しきって、現実を超えた世界を垣間見せるものはしっかりと存在するのに。