田原桂一のアート

   自然教育園を散歩しようと思って家を出たら、その隣りの庭園美術館「田原桂一展」をやっていたので、少しのぞいてみた。
 でも、大して感じるものはなかった。この種のものを、よく「幻想的」と評する人がいるが、最初から幻想的になりそうなものを作ろうと意図して、オブジェに「光」の効果を組み合わせると、なんとなく幻想的に感じられるものなるという程度のものに思えた。「光」は人智を超えたものだから、その存在自体が常にシュールレアリスム(超現実的)だ。その「光」と組み合わせたものが新しいかどうかということで、アーティストとしての注目度が集まる。
 しかし、その組み合わせ競争のなかで、田原桂一氏が、写真家ではなく「アーティスト」として活動するようになってから制作している巨大な立体造形に関しては、苦し紛れと感じてしてしまう。
 とにかく「作品らしきもの」をつくって、あとから無理矢理解釈をつけているのではないだろうか。こうしたものが「現代アート」として括られると、何か高尚なもののように勘違いされるが、最初から「装飾品」と言えばいいのにと思う。
 もちろん、今日のアートは、装飾的価値として存在しているので、作り手はそれでいいのだが、一番タチが悪いのは、そのアートに寄生している評論家だろう。
 今回の田原桂一氏の作品のなかで、彫刻作品を撮影したものを布などに印画し、それに後ろから光を当てて透かし絵にしたような<トルソー>というものがあるが、それを評して、「私たちに、生きている人間以上の生やエロスを感じさせる」と評したり、葉っぱの写真を同じように布に印画し、それを透かしたものを、「葉脈の一本一本をも大切にし、モノをいとおしむ緊張感を伝えてくれる。そこでは、時間と光の継続性を表現することに挑み、光によって<存在するものの意味>を、私たちに問いかけている」と評しているが、何が言いたいかよくわからない。「葉脈の一本一本をも大切にし」と、敢えて“をも”と言わなくてはいけない真意は何なのだろう。葉は、葉脈こそが美しいのではないか。また、光に透かした写真作品が、なぜ、時間と光の継続性の表現なのか、私にはさっぱり理解できない。そもそも「時間と光の継続性」って、何? そうかと思えば、「時間と光の交錯、光の痕跡」と言ってみたり、「生き物としての光、光の生命力」など、言っている本人が、使っている言葉の概念をよく掴めていないまま言っているのではないかと思えるような言葉が続く。
 「時間」にしても、「生命」にしても、簡単に口にするが、それらの言葉が指し示すものを、もう少し真剣に考えてから発言してほしい。こういう煙に巻いた表現をして、それを理解できないのは知的でないというような素振りで、知的で高尚な装いをしたがる人々は、わかったふりをしてしまう。でも本当に、心から納得できているの? 現代風オブジェを作る人も、その取り巻きの評論家も、わかったふりをしたがる人間の虚栄にうまくつけ込んでいるだけではないだろうか。
 田原桂一作品の「光」から私が感じたものは、「生命」とか「時間」などという次元のものではなく、ただの「演出効果」だ。彫刻写真を光に透かすことで、ただの写真より演出効果が増していることは間違いない。しかし、写真そのものの力だけで、これ以上の存在感を発揮しているものは存在する。それ以前に、ロダンの彫刻が持つ圧倒的な迫力が希薄化されてしまい、装飾化され、ただの「綺麗ねえ」に成り下がってしまっている。ロダンが見たら、たぶん怒り狂うだろう。
 私は、有名アーティストとしての田原桂一作品にはまったく興味が持てなかったが、この人が22歳?の頃に撮影したパリの「窓」の写真には感じるものがあった。あの押し上げ式の窓は、私が20歳の頃に暮らしたパリの屋根裏部屋の典型的なものだ。
 あの頃の私も、夢と現実の隙間に逃げ込んで、毎日、あの屋根裏部屋の窓から外を眺めていた。その逃げ込んだ場所が、狭いながらも高い場所で、パリの街を遠くまで見渡すことができた。その広い視界を得ると、私は、自分がとても崇高なものになったような気がした。でも今になって思えば、そこは、私にとって、夢と現実の隙間で誰にも邪魔されずに独りになれる「逃げ込み場所」にすぎなかったのだけど・・・。
 あの田原桂一氏の写真のガラスの枠組みは、自分を閉じこめている自己のガラス窓だ。その窓越しに、上から見下ろすように世界を眺める。まるで精神の貴族になったような気分で。でも、世界との付き合い方は、しょせんガラスの窓越しでしかない。あれは、そういう気分が強く醸し出された写真だ。そして、その距離感というかクールさの徹底が知的で冷静でかっこよく、優雅に感じられたりもする。
 田原桂一氏のアートって、「光の探求」とか「光の物質化」とか評論家がいろいろ書いているけれど、実際は、あのパリの屋根裏部屋のガラス窓越しのクールでニヒルで少し陶然とした視線からはじまって、その延長にあるだけではないのだろうか。
 その夢と現実の隙間にいるかぎり、世界や人間と真正面から向き合うことは難しい。でも、世界や人間と真摯に向き合いすぎて、その苦しみのあまり、夢と現実の隙間に逃れざるを得ないということもある。自分に正直であればあるほど、夢のなかに浸りきったり、現実のなかに溺れきったりできず、その間で、両方を見ながら、どちらにも行けず、独り悶々とするしかないから・・・。