ジョルジュ・ド・ラトゥール展

 先日の唐招提寺展は、展覧会の終了間際に行ったために大混雑だったこともあり、ラトゥール展は、早い時期の午前中に行くことにして正解だった。口コミで噂が広がったり、テレビなどが取り上げると、大勢の人が押し掛けるだろう。なにせ、世界に40点しか残されていない作品の大半が日本にやってきた奇跡の展覧会なのだから。
 このラトゥールの作品の聖なる美しさは、できるだけ人が少ない時に見た方がいい。一枚一枚の絵とじっくり向き合って見た方がいい。
 ラトゥールの絵を見ていると、「美」というのは精神の美しさだということを、当たり前のことのように感じる。
 もちろん、技術というものも大事だろう。しかし、芸術にとって技術が何を引き出すために必要なのかということを、ラトゥールの作品は静かに伝えている。
 特に「聖ヨセフの夢」や「荒野の洗礼者ヨハネ」や「書物のあるマグダラのマリア」は、そこにあるのが絵画だという分別を超えて、ラトゥールの魂が直にそこにあって触れることができそうな感覚になる。400年間、四角い二次元の画面に止め置かれた驚くべき永遠。題名には聖人の名がつけられているが、そこにいるのは、普通の人で、見ようによっては、ごく日常のワンシーンが描かれているにすぎない。にもかかわらず、聖人の名に相応しい聖性がたちのぼっている。聖人の物語だから美しいのではなく、ごく普通の人の普通の振る舞いが、聖人の振る舞いのような聖と美に満ちあふれているのだ。
 「聖ヨセフの夢」の絵は、仕事で疲れた老人と孫娘のようでもあるし、「荒野の洗礼者ヨハネ」は、みすぼらしい小屋で羊に餌をやっている男であって、聖人と特徴づけるものは何もないのだが(手に持っている杖は、いちおう十字架の形だが、本物の十字架ではない)、それでもやはり聖なる人間であることに違いないと感じさせるオーラがある。
 聖職者の衣を着ているだけで聖人のふりをしたがる人がいるけど、それは大きな間違い。人間の聖性は、その人の身体全体から放たれる気のようなものだ。
 ラトゥールの絵を見る時には題名は見ない方がいい。ヨセフとかヨハネとか関係ない。画面に登場する普通の人が、普通の服を着たり裸だったりして、普通の行いをしているだけなのに、なにゆえに聖なる雰囲気を帯びているのか考えることで、人間の聖性とは何であるか知ることができるかもしれない。もしかしたら、ラトゥールは、そういうことを伝えようとしているのかもしれない。「書物のあるマグダラのマリア」と題された作品のなかのマリアは、大きな本の前で裸になって頭蓋骨を手にしている。普通に考えると、とても奇妙なシチュエーションである。にもかかわらず、この絵は美しいし、聖なる力を帯びている。それは、題材がマグダラのマリアだからではない。頭蓋骨があることが不自然にならないのも、それがマグダラのマリアを象徴する小道具として必ず登場するものだからではない。そういう分別を抜きにして見ても、この絵は美しくて、それは絵の力のなせる業なのだ。
 この絵の骸骨と裸の女性の間には“愛”が通っている。“愛”は、対象の外観や肉体世界の出来事ではなく、“魂”の問題であることが、当たり前のこととして描かれている。あの絵が意味するところは、「キリストの頭蓋骨に思いを寄せる聖人マグダラのマリアの表現」という特殊なケーススタディではなく、おそらく“愛”の本質のビジュアル化なのだと私は思う。
 そして、「聖ヨハネの夢」や「荒野の洗礼者ヨハネ」も、“いたわり”や“施し”など「愛」の別のかたちなのではないか。
 そういえば、今日、展覧会を見ていると、見学者のなかで、西洋の信仰と日本の信仰の違いを連れの女性に大声で説いている人がいて、すべての絵の前でそれをやるものだから、周りも大変迷惑していた。とにかく声がでかいのだ。そして途切れることなく喋っているのだ。周りの人に対する気遣いはまったくないようだった。それとも、自分の知識が誇らしく、周りにも聞かせたいのだろうか。「これはユダで、ユダというのは・・・・」などと、ラトゥールの絵と関係あるようにみえて、本質的にはまったく相反していることを、得意になってしゃべっているその人は、袈裟を着て、館内なのに堂々と笠をかぶった僧侶だったのだが、私が見る限り、聖なるものは何も感じられなかった。