いのちの文(あや) 環境と自分

 18歳で故郷を離れてから30代が終わる頃まで故郷が大嫌いだった。父が明石から神戸に移っていることもあり、明石の地は、40歳になるまで一度も踏まなかった。
 40代になってからは以前ほど嫌悪感はもたなくなっていたが、それでも年に一度くらい訪れて、たこ焼きを食べたり、魚の棚センターで魚介類を買ったり食べたりするくらいだった。
 50歳を過ぎ、昨年、東京から京都に拠点を移し、明石の地まで阪急電車阪神電車を乗り継いで1時間半ほどで行けるようになり、ぐっと身近になった。
 京都には海がない。東京にいた時も、ほとんど海の気配を感じることはなかった。
 小学生〜中学生にかけて海の眼の前に住んでいた。二階の窓からは淡路島が見えて、そこが外国だと思っていた。当時、高度経済成長の時代で、明石海峡を世界一の大型タンカーが行き来しており、毎朝、朝刊にその時刻が示され、それに合わせて、その巨体を眺めることが楽しみの一つだった。また、小学校の後半くらいまでは海はまだきれいで、海水浴や釣りなど子供らしい遊びは普通に行なっていたが、他の子供達と少し違う私だけの楽しみがあった。それは、ワカメ獲りだった。
 膝より少し上くらいまで海の中に入り、波の上にバケツを浮かせて、竹竿の先端に針金で細工をした鉤をくっつけ、流れてくるワカメを引っ掛けるのだ。そうやって波の揺れに身体を預けながら、正面に淡路島を眺め、何時間も海の中に入っていた。身体に打ち寄せてくる波の感覚は、時間の経過を忘れさせ飽きることはなかった。そして、バケツいっぱいのワカメを持ち帰ると母が喜んで、それを干して乾燥させて、家では毎晩のようにワカメを食べていたし、近所の人に配ったりしていた。
 中学校に入る頃くらいだったと思うが、明石市の西の播磨町というところに埋め立て地ができて、工場が建って、海が次第に汚れてきた。と同時に、そういう遊びをあまりしなくなったし、いつの間にか興味もなくなっていた。そして、いつしか明石の地を嫌うようになり、離れたくてしかたなくなり、大学を決める時も、周りの友人は関西圏で選択する者がほとんどだったが、私はできるだけ遠くに行きたかった。
 今さらながら思うのは、環境というのは、人間にとって、とても大事ということだ。
 私が明石の地を嫌うようになった理由は、いろいろなことが積み重なっている。たとえば高校時代、新設校ということもあって先生が進学の業績作りのことしか考えておらず、人間的に関係が深まるということがまったくなかったということもある。高校を卒業していらい、一度も高校時代の先生に会っていない。
 しかし、そういう表向きのことよりも、学校の先生の対応や、急速に海が汚れていくということや、親戚の人達の話にしても、人間が人間らしく生きることに対してとても杜撰だという印象を、思春期の尖った心が敏感に感じていたということがある。
 先生も親も親戚も、よく「しかたないやないか」と言っていた。そして、「おまえは、理屈っぽい」と私を批判した。ものを考え、疑問を持つことは、理屈っぽいこととされていた。現実をそのまま受け入れて素直に従うことが生きることだと強要されている気がして、ものすごく反発を感じていた。
 自分の周りにいた人々が、その後どうなっているかはわからない。ただ一つ言えることは、明石の海は、ずいぶんときれいになっていること。
 30年という歳月のあいだに、公害に蝕まれていた日本は、かなり改善された。
 明石という地は、もともと食材の豊かなところだったので、海がきれいになり、食べ物もおいしいとなれば、とても健やかな地であるとは思う。
 ただ問題なのは、海辺の素晴らしい眺望のところに大きなパチンコ屋が進出しようとして、住民の反対を受けて慌てて行政がそれを阻むために風営法の規制対象になるように近隣に保育所を作ったり、幹線道路をはじめ目立つところにラブホテルの看板が大きく出ていたり、子供の心を育む環境としてどうなのかと疑問を感じるところが多いことだ。
 明石にかぎらず地方都市を訪れても、駅前のシャッター街のなかで、誰もテナントとして入らなくなった巨大なビル一棟がパチンコ店になっていて、正月から営業していて、正月にもかかわらず人で混み合っている光景を見たり、カラオケ店やラブホテルが目立つところに乱立していることがよくある。そして、最近では、どこにいってもチェーンのファミリーレストラン
 そうした環境は、明るい照明と、ケバケバしい装飾で演出していても、殺伐とした印象を受ける。
 猥雑な雰囲気は嫌いではないが、どこに行っても同じような画一的で均質的な光景の中に、退屈をしのぐためだけの施設が賑々しく存在しているのを見ていると、自分自身が蝕まれていくような感じがする。思春期の頃に明石の地が厭でしかたなかったのも、そこにいると自分自身が蝕まれていくような気がして、そこから逃れたかったのだ。しかし、悲しいかな、明石の地を離れて住み始めた大学のある土地もまた同じだった。そこにいると自分が蝕まれていくような不吉なものを感じて、けっきょく二年で辞めて、海外を放浪した。
 大学を中退しただけでなく、日本に帰ってから務めた幾つかの会社も数年で辞めた。仕事が大変だから辞めたのではなく、いつの場合も自分が蝕まれていくような不吉さが、ドロップアウトの動機だった。そして、私が辞めた後、何年か後に、それらの会社は倒産したり、分裂したりしている。20代の時に務めた三つの会社は、全て倒産した。
 先見の明があったのではなく、自分が蝕まれていくような感覚に対して敏感で(誰でもその感覚はある筈)、その感覚を基準にして行動してきたのだ。不吉さを感じながらも、仕方がないからと自分をごまかしてしまうと、動くことができなくなる。
 動くことはとても大事なことで、なぜなら人間の知覚というのは、動くことによってその働きがより適確になる性質があるからだ。
 物事を判断する時、静止状態だと、自分が蓄えている記憶や経験と周りにいる人間のアドバイス(仕方が無いから我慢しなさいと言う人が多い)に従ったりしながら、固定した一つの方向から状況を推察して判断するしかない。それは、判断の情報としては、あまりにも不十分だ。
 それに対して、自分から動いていくと、それまでの経験や知識に頼れない状況に遭遇することが多くなり、その錯綜とした迷路じたいが新鮮で刺激的で、動きつつ視点を変えながら、これで十分だと思えるまで足りない情報を補完しようとする。固定した一方向ではなく、視点を変えることで色々な方向から世界を見ることができる。そうすることによってはじめて、どうでもいいものと、そうでないものの違いが、より明確になる。
 変化というのはとても大事なことで、なぜならば、変化があることで初めて、不変なものが見えてくるからだ。自分がやっていることについても、違うことを色々やってみることで、違うことをやっているにも関わらず変わらない自分というものがあるということがわかる。
 色々な経験をやった人ほど自分のことを理解できるというのは、そういうことだろう。
 そしてもう一つ、動くことの重要性は、環境と自分との関係性がわかってくることだ。 同一の環境にずっと居付いてしまうと、その環境が好きか嫌いか、その環境が自分に合っているかそうでないかと、自分が主体的に判断し、環境は判断される対象のように思ってしまう。

 しかし、たとえば鼻が詰まっていたら空気の清々しさにも気付かないし、風邪をひいて舌が麻痺していたら、どんな御馳走を食べても味わえないことでもわかるように、環境をどう感じているかというのは、自分の状態をどう感じているかと同一のことだ。
 食材が良くて自分の舌が快調ならば、塩やソースで過剰に味付けをしなくても料理がうまい。悪い食材をごまかす為に味付けを濃くしたものを食べていると、自分の舌もそれに引きずられておかしくなってしまうし、自分の状態が悪いと、せっかくの良い食材も味わえない。
 自分の状態が悪いのか環境が悪いのかというのは、ずっと同じ状況の中にいるとわからなくなってしまう。
 食べ物に限らず、人付き合いにしてもそうだけれど、動くことや新たな出会いによって生じる自分の状態を客観視することで、環境と自分の関係性の重要さに気付く事ができる。
 環境を味わうことは、自分自身を味わうこと。環境をないがしろにすることは、自分自身をないがしろにすること。環境を損なうと、いつかそのしっぺ返しがくるという言い方がよくされるが、そうではなく、環境を損なうことを平気でできてしまう気持ちが、同時に、自分を損なうことを平気でできてしまう気持ちになっていることが問題なのだ。もちろん、誰でも自分のことが可愛い。にもかかわらず、人生において、自分を損なう方向に自分で導いていることが多く、そのことを意識すると辛いから、無聊の慰めにふけってしまったり、ギャンブル中毒をはじめ、なにかしらの中毒になってしまうことがある。
 原発問題に関しても、将来、起こるかもしれない原発事故を心配して反対するという、推論に基づく判断ではなく、「仕方が無い」という言い方で、自分自身を蝕んでいく生き方を受け入れなくてはいけないという気分を多くの国民が共有化していることが、一番の問題だという気がする。
 学校教育や企業活動において、たとえば鮨詰めの電車で毎朝、遠距離を通勤する生活が何十年も続くことなど自分を蝕んでいくことを十分に予想できる状況がこの社会の至るところにあるし、そうした状況に順応することが生きることだと思い込んでいる人も多い。自分にはそういう生き方しかできないとか、今さらめんどうだと思ったりして。
 そして、そのように思っているのは、自分自身だと思っている。でも本当はそうではなく、環境がそう思わせているのだ。自分の置かれている環境が、自分自身に対してそう思わせるように働きかかけている。
 だから、環境が変わった瞬間、自分がそれまで頑に信じていた思いが、意外と簡単に変わってしまう。
 最近になって、ようやく自分の生まれ故郷の良さを味わえるような感覚になってきているのは、年をとれば誰でもそうかもしれないけれど、人生を通して色々と動いてきて、環境が変われば自分が変わり自分が変われば環境が変わるという経験を積み重ねてきて、大きく変わってしまったものをたくさん知ると同時に、それでも変わらないものを自分の中に見いだし、その変わらないものを作っているのは、けっきょく子供の頃の自分の環境だということに気付いたからだ。
 無心の状態で海の中に浸かって、流れてくるワカメを引っ掛けるあの感覚。
 仕事をする時もそうだけど、自分の行動は、あの感覚に添って行なわれていることが多い。
 私はいつも、自分の中にあらかじめ蓄積した情報や知識や経験に基づいて何かを計画して動いてこなかった。大学を辞めて、放浪の旅に出た時、海外で、留学その他の明確なプランのある人達と会い、彼らが得意げにそれを語るのを聞くたびに、何のプランもない自分に対して、ものすごくコンプレックスを感じていた。
 人生の目標も含めて自分の中には意味のあるものは何もなく、意味のあるものは自分の外にあって、それを探し出して掴むために動かなければならないという思いで、場を変え続けてきた。今で言うならば”自分探し”なのだろう。でもその言葉は正確ではなく、自分と環境は一体なのだから、環境の中にそれ自体で意味を持つ大切な価値を探求し続けていたということになる。
 風の旅人の次号のテーマは、いのちの文(あや)なのだが、その巻頭に、A.N.ホワイトヘッドの「一個の有機体は、それが、それ自身であるために、全宇宙を必要とする。」という言葉を掲げている。
 有機体というのは、個々の自分であり、全宇宙というのは、今この瞬間の出来事ではなく、これまでの宇宙が歴史的に辿って来た環境全体のことだと思う。
 だから、「私が、私自身であるために、これまで自分が辿ってきた全環境を必要とする。」という言葉に置き換える事ができる。
 そのトータルの持続と変化の中に詰まった情報は、変化が多様であればあるほど、複雑精妙で他のもので簡単に代用できない。画一的な答えには馴染まない。文(あや)は、怪しく、妖しく、微妙で繊細で、人間の脳で安易に加工処理するよりも、それそのものを味わった方が、その豊かな風味を損なずに味わうことができるし、そうしようと思うならば、向こうから運ばれてくるのを待つのではなく、自分から動いて迷路の中に入っていかなければならない。自分で考え、自分で判断し、自分で行動するかぎり、迷いが生じて当然だが、だからこそ気付くことが多い。
 人間は、いのちを都合よく加工できるかのように錯覚しているが、それは、自分自身を生産ラインの中で加工処理して袋詰めにすることと同一であることに、いつ気付くのだろう。

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