新しいイリュージョン?と保坂さんの小説

 11月23日のBLOGで、今日の小説家の作品のなかで読みたいと思う数少ない一つが保坂和志さんだと書いた。
 そのあたりの理由は、「新しいイリュージョン」に関係あるように思える。
 今日にかぎらず、人間の歴史のなかで、各時代ごとに異なる人間の環世界というものがあった。神を信じる時代、そして科学を信じる時代・・・。しかし、どの時代においても、人間特有の過剰な自己意識(から生じる分別)ゆえに、自分の内と外が分裂していく危機が発生する。
 それぞれの時代に生まれた偉大なる「芸術表現」というのは、その分裂する内と外の分別を無化して統合して掌握する新しいイリュージョンを作り出して、「内も外も実態」としての世界の感じ方や思い方を、説得力のある形で指し示していたのではないだろうか。
 今日の社会において、無数の表現希望者が自己主張や自己証明のため無数の表現行為を繰り返しているが、「内も外も実態」として自然と納得できてしまう表現はほとんどない。映像や音楽の世界はまだましだが、言葉の表現においては、皆無に近い。
 映像とか音楽だと、何となくそれを感じることはできても、匂いや味のように希薄になってしまい、確かなものとして意識化できない。やはり、自己意識(から生じる分別)の賜である言葉を生みだした人間は、最終的に、言葉によって納得して意識化できる生物なのだろう。
 現代の人間は、神も信じることができないし、科学も信じることができない。ならば、現代の人間が共有する「古いイリュージョン」って、いったい何だろう。
 敢えて言うなら、「数」。売り上げランキングとか、人気ランキングで、モノゴトの評価付けがされることは多い。また、個人的には「数」を基軸にしていないつもりでも、企業とか役所とか、公的な立場で仕事をする際に、「数」の呪縛から逃れることは極めて難しい。経済成長率、株価、視聴率、発行部数、売上高、利益額、チェーン店数、出生率、平均給与、平均年齢、失業率、フリーターやニートの数、「数」によって、世の中の状況を判断しようとする価値基軸は、今日的な古いイリュージョンなのだろうが、この呪縛は、おそろしく手強い。
 とここまで書いても、「数」が「実態」を表しているに決まっているでしょと言われると、それに反論するロジックを持つことは難しい。視聴率競争にしても、その競争の背景に、スポンサーとの間で「数」を基軸にした了解事項が成り立っており、「数」というわかりやすい了解事項に基づいて仕事をした方が無難で責任の所在も明快で楽だと感じているスポンサーの社員が多く、その社員達を評価する基軸も「数」の論理が主流なのだから、今日の人間世界の「数」の構造は想像以上に頑迷で複雑だ。
 「数」の呪縛から逃れるためには、自分のなかに「数」のロジックを凌駕できる新たな判断基軸を作り出さなければならないし、説得力も持たなければならないし、前例のない価値基軸に対してリスクも負わなければならない。「人間の価値は数で計れません」などと口先で言うだけで、この現状を覆すことはできない。
 自分の存在価値を、「数」にあてはめていくと、年収とか、寿命とか、所有している車の数やブランド品の数などになっていく。「数」こそが実態という世界で成功を収め、高収入を獲得して内面的にも満たされている人はいるが、その「数」は一握りだ。
 多くの人にとって、自分の存在価値や幸福度を「数」ではかることは、他人と比べて多いか少ないかという相対的な問題になってしまい、常に不安定な状態に晒されることになる。
 そのようにして、世間的に絶対的な価値基軸になっている「数」が、自分個人にとってそうでないと実感し、内と外にギャップを感じながら、それに代わる基軸を見いだせなくて、苦しんでいる人は多い。
 そうした状況の中、内と外の分裂と苦しみをそのまま表現し、これが現状だと指し示すことは誰にでもできることだし、あまり意味のないことであって、そこから僅かでも展望を見出そうとする衝動によって新しいイリュージョンを創造しようとしている人こそが、信用できる表現者なのだ。
 その信用できる表現者は、「神」でも「科学」でも「数」でもない新しいイリュージョンによって自分の内と外の分別を無化して統合して掌握することの必要性に気づき、実践しようとしている。
 そうした試みは、現代の「神話」と言うべきものに育っていくだろう。
 保坂和志さんの「カンバセーションピース」という小説は、言語表現における新しいイリュージョンの創出によって内も外も一つになった新しい「環世界」を浮かびあがらせて、そのなかに生きることに展望を見出そうとしている。内と外が分裂した現状をなぞることが表現だと勘違いしているものが多い今日の文学世界のなかで、この作品は、貴重で稀少で冒険的な「模索」を行っているように思う。