言葉と音楽性



ozetinさま

 

 頭をひねっていただいて、有り難うございます。

 トラックバックに対する返事、長くなりそうなので、こちらに書きます。 

お世辞でなく、ozetinさんの文章は、素直で、筋がとおっていて、読んでいて気持ちがいい文章だと思います。この気持ちの良さが、これからの人間と人間のコミュニケーションにおいて、とても重要なものになっていくと予感します。

 というのは、おっしゃる通り、テレビのキャスターでも、新聞の記事でも、有識者の発言でも、学者の講義でも、国会議員の答弁でも、評論家の解説でも、証券アナリストの分析でも、文学者の文学表現でも、とにかく、今の世の中に溢れかえる言葉には、うさんくさいというか、もったいつけているというか、分け知った風を装っているというか、気持の悪い文章なり発言があまりにも多いのです。

 なぜこんなにも気持の悪い言葉ばかりが表面化しているのだろうということを、一度冷静に考えた方がいいかもれません。この気持ち悪さはいったいどこから来ているのかと。そのことをじっくり考えることが、言葉というのは、本来、何のために存在しているのか、ということを考えることにつながるのかもしれないと思ったりします。

 「はじめ言葉は一つだった」のです。一つというのは、一言語ということではないと思います。

 言葉というものは、モノゴトの伝達のためではなく、対話を通して思いを伝えるために生まれたのではないかと私は思います。言葉が生まれる以前の人間世界には、それほど伝達すべき事柄がなかった筈です。猿の世界とさほど変わらないでしょう。もしそうなら、言語は必要なく、音とか身振りとかで充分にコミュニケーションは可能です。外国語がわからなくても旅ができるように。異国を旅して、もっと外国語を勉強していればよかったと痛切に感じるのは、「自分の思い」をうまく伝えられない時です。

 人間はきっと思いを伝えたくて言葉を生み出したのではないでしょうか。

 人間が人間に成ったのは、「死」を意識し始めたからだと言われます。「死」を意識することで、「生」を意識し、胸中に様々な思いが渦巻いたでしょう。世界の不条理とか、不可解さとか、恐ろしさを、以前よりもいっそう感じ、心のなかの混沌状態に何らかの秩序を見いだすために、人間は言葉を生み出した。

 言葉が本来一つだったというのは、そういう意味ではないかと私は思います。

 しかし、いったん生まれ落ちた言葉は、その利便性が特化することとなり、モノゴトの伝達手段として膨張していくわけですが、やがて、その言葉そのものに人間世界が飲み込まれてしまう。始皇帝が、焚書坑儒をしたことについて、その暴君ぶりが強調されたりしますが、実際は、今日のような諸子百家状態でわけがわからない言葉が溢れかえり、そうした状態を強引に修正しようとしたのではないかと私は想像します。古代ギリシアにおいて、ソフィスト(詭弁家)全盛の頃も同じ状態です。ソクラテスは、ソフィスト達を論破して無知の自覚を説いたわけですが、常に対話を通して無知の自覚に至るように論を展開したわけで、やはり言葉の使い方として、非常に理にかなっていたのではないかと私は思います。

 

 話は変わりますが、私が最近感じているのは、「風の旅人」は、音楽的感性のある人に愛読者が多いということです。この雑誌がすごく売れている中野の青井書店では、音楽雑誌の横に平置きされていました。人文書の近くとか、写真集とか、旅のコーナーより、音楽の方が反応がよかったので、最初は驚きました。音楽というジャンルの問題ではなく、文学でも学問でも写真でも絵でも、音楽的な気持ちよさがあるものと、そうでないものがあります。右脳が反応するということ、身体的に反応するということ・・・・、それは、「思い」に反応することではないかと思います。

 言葉は、書き言葉ではなく話し言葉から始まったわけで、そこにはきっと音楽性が強くあった筈なんです。また、村の歴史の伝達にしても、口承で行われていた際には、その音楽性によって身体的に物語が受け継がれた筈です。ホメロスの神話にしても、一人の作者ではなく、数多くの吟遊詩人の口承伝承の賜でしょう。

 音楽は、理性に働きかけるのではなく、身体と情動が一つになった魂に働きかけます。言い換えるなら、身体と情動が一つになった魂に働きかける力をもった文学や写真や絵には、音楽的要素があるということだと思います。

 それで、一番最初に書いた、今日の社会に溢れる言葉の気持ち悪さは、音楽性がまったく感じられないからかもしれません。

でも、教養や実用のために本を読んでいる人にとっては、音楽性のない言葉であっても、そこにある情報を覚えなければいけないという気持が先走りし、気持ち悪いという感覚がわからないかもしれません。

そうしたものに気持ち悪さを感じ、なんかおかしいんじゃないかという気持に素直になる人がもっと増えれば、「風の旅人」の読者も増えるのではないか、と現状に苦しみながらも、希望を持っています。