環世界

日郄敏隆様
拝啓
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 本日、2005年4月号の企画書と、掲載写真をお送りします。
 4月号のテーマは、「自然」と「人間」のあいだ?〜生命系、30億年の時空〜です。
 「自然と人間のあいだ」というテーマを掘り下げることの窮極の目標は、新しいイリュージョンを獲得することです。
 そのために、日高先生のお力が必要ですし、日高先生に何をどのように書いていただくか考えることじたいが、テーマをより明確にし、かつ深く掘り下げることにもつながるわけで、とても難しいですが、楽しくもあります。
 そこで次号ですが、「環世界」ということを考えました。
 生き物が物理的に生きている世界ということでなく、心身ともにつながっていることを当たり前のこととして認識している世界です。
 生き物にとって、認識のこちら側ということになるのでしょうか。しかし、人間の場合、少々複雑で、認識の向こう側の世界をなんとなく察してしまっているところがあります。認識のこちら側と向こう側に引き裂かれるような感覚があって、これが他の生き物にない「死」の自覚ということにつながっているのだと思いますが、認識の境界線は常に変わり、それゆえ、どこからどこまでが人間の常態としての環世界なのだろうと、わけがわからなくなります。
 原始の時代から、人間の環世界は、常に流動的ではないかという気がします。宇宙に進出する時代であっても、想像力や身体感覚(身体の知)においては、もしかしたら狭まっているかもしれません。ワニやトカゲを祖先と考え、それらとのつながりを本気で考えて、「いのちそのもの」と真摯に向き合って生きていた原始の人間の方が、環世界は広いという気が致します。
 今日のように、いろいろなモノゴトが溢れていても、自分とのつながりを意識できず、ただそこにモノゴトがある(らしい)と認識する程度の世界は、自分にとっての本当の世界(環世界)ではありません。心身とも一体となって本気でそう信じられる世界こそ、生き物にとって「環世界」ではないかと思いますが、人間は、利口になればなるほど、その領域をせばめている。海外に簡単に行ける時代でありますが、大きな世界とつながっているという感覚はどんどん希薄になり、息苦しくなって、心理的にますます狭いところに閉じこもろうとしている。
 目に見える自然、星々、天変地異、様々な生き物、天地の間のありとあらゆる現象が、自分と深く結びついていると本気で実感し、その運命と一体化して生き生きと生きていた時代が、かつて人間にもあった。
 しかし、今日においても、原始の時代に帰るということではなく、世界の掌握の仕方次第で、その感覚を取り戻すことは可能ではないか、と私は思います。簡単なことではないけれど、絶望的なことではない。自然と人間のあいだを正しく掌握することによって、きっとそれは可能になると思います。
 というわけで、いつも難問で申し訳ございませんが、日高先生には、「環世界」について、ご執筆いただければと思います。
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                                         敬具 
                            風の旅人 編集長 佐伯剛