風の旅人 Vol.20 について

 

 6/1に発行される「風の旅人」20号のテーマは、ALL REFLECTIONです。

 http://www.kazetabi.com/

 月面の写真、桂離宮や日本の道具、オーストラリアの都市と、自然荒廃が続く郊外、夕張炭鉱、戦前、戦中の東京といった写真が続きます。

 

 この号の趣旨は、

 「月は、太陽の光を反映して、刻々と姿を変えながら、夜空に美しく輝いている。人間がつくり出す道具も、使い道を反映して、特有の命を帯びる。自然も、人間社会の現象も、その時々の様々な関係を反映して姿を変えるが、形あるものが消失し、また現れるという円環は、果てしなく続いている。」というものです。

 つまり、実体あるものは、それじたいで存在しているのではなく、他の様々なものとの関係性を反映して、存在を示すということでしょうか。

 たとえば、自然破壊や原発の問題にしても、それじたいをアレコレ批判するだけではだめで、それらの現象を生じさせている他の関係を考えなければいけないと思います。その関係も、表だった利害関係者を糾弾して(ことも必要ですが)、自己満足に陥っていても何にもならず、そういう現象を促進させている私たち自身の生活や生き方との関わりを考えていかなければならないでしょう。

 

 この号では、トレントパークというマグナム会員の気鋭の若手写真家の、オーストラリアを舞台にした写真を紹介していますが、これはオーストラリアという地域限定のことではなく、全世界の資本主義諸国の姿です。また、それに対比する形で、石元泰博さんが撮った桂離宮や日本の道具の写真が掲載されています。日本人が本質的にどういうものを美しいと感じていたのか、再認識させる写真だと思います。石元さんの桂離宮の写真は、「寂」という言葉に相応しいものですが、「寂」という言葉が、日本の伝統文化を整理して括る記号化された言葉に成り下がっていますので、敢えて、PLAIN LIVING AND HIGH THINKING と名付けました。

 また、約17年間、夕張に住み続けた風間健介さんが撮った炭鉱は、外から客観的になぞっただけの暗い炭鉱のイメージを払拭し、一時代の必然のなかを生き抜いた人間のエネルギーが溢れています。

 全ては”空”であるけれど、だからといって何もする意味がないのではなく、その”空”のなかに、様々な豊かなものが漲っている。外向きのイメージや、結果だけを見るのではなく、その中身やプロセスにこそ目を向けるべきでしょう。

 彼は、この号への掲載が決まってから、今年の写真協会の新人賞を受賞することになりました。確か今月、授賞式と、写真展が行われると思います。

 また、興味深く見ていただけるのは、桑原甲子雄さんが撮った、戦前および戦中の東京の写真です。過去というものは、今目の前に見ることができません。何かしらのフィルターを通じて見ることになります。それゆえ、そのフィルターの選び方によって、いかようにも解釈が成り立つということです。そのフィルターというのが、言葉の場合もあるし、映像の場合もある。特に映像は、印象が強い。昭和のドキュメンタリーで繰り返し見せられている戦前のイメージと、この号に掲載されたイメージとのギャップを感じていただければと思います。

 「風の旅人」は、写真だけでなく、執筆陣の言葉の力も凄いものがあると思います。

 情報誌のようにスラスラと消化できる言葉ではありませんが、スラスラと消化できる言葉というのは、自分が既に所有しているモノゴトの考え方や感じ方をなぞって安心させてくれるものにすぎません。筋力と同じように、ある程度の負荷を与えなければ、感性も思考も衰えてしまう。そういう意味で、少しずつでもいいので、「風の旅人」で紹介させていただいている文章を読んでいただければと思います。

 言葉を担う知識人と言われる人には二種類いると私は思います。「知識情報」だけを右から左に流す人と、感性と思考を織り込んだ言語活動を行う人。特に、「感性」が織り込まれていることが大事だと思います。なぜなら、「感性」は、人間の無意識の領域を反映しているからで、そこは、氷山で言えば、海面上に見える氷の塊の何倍もの大きさが海面下にあるのと同じように、目に見えない様々なものが蓄えられているからです。

 目に目える海面上の氷の部分だけで語る人は無数にいますが、そういう人には、執筆を依頼しません。海面下の無意識の領域を照射する力は、感性の力だと思います。そして、その照射されたものを、思考力によって言語化する。

 「風の旅人」で紹介させていただいている方々の文章は、そういうものだと私は思っています。

 あと、今回の新しい試みは、書道家とのコラボレーションです。

 今回の号に掲載する写真を、書道家の御園平さんに見ていただき、「寂」とか「幽」とか、ある程度の方向付けは私の方でさせていただき、そこから先は、書道家ならではのインスピレーションと集中力で、「書」を書いていただきました。

 「幽」と活字化されることで、文字が本来持っていた言霊が薄れます。「書」は、その言霊を取り戻す力があります。

 そして、言霊というのは、人とモノゴトの間を行き交うエネルギーであり、その反映が、「書」だと思います。

 「書」の力によって、写真や文章の関係性を反映する。そうした試みです。特に、今回は、全部の写真がモノクロですが、ぱっと表面だけ見た感じでは、バラバラのものが集まっているように感じられるかもしれません。一見、バラバラに見えるものが、根っこの部分でしっかりとつながっている。そのつながりは、「書」の力によって、より明らかになる。そういうことを願っています。