もののあはれ

 最近、日比谷で二つの映画を見た。一つは、四肢麻痺の状態で自らの死の権利を得るために裁判で闘って敗れる男の物語。そして、もう一つは、ロシア革命で、逆難民としてギリシャに戻ってきた人間の、父子の葛藤や戦争や洪水など壮絶な生の物語。どちらも、人間の生と死の不条理を描いた、重いテーマの映画だ。日頃、顔を背けるように避けている世界に引き込まれて、宙に放り出される。おそるべし作品の力。これらの作品は、ハウツー本のように簡単な解答を示してくれるわけではないから、答えのない問いのなかで、絞りきった雑巾をさらに絞らされるような苦しい負荷が心にかかる。しかし、不思議なことに、映画を見終わって銀座の街を歩いている時、街並みがキラキラと美しく輝いて見えたのだった。
 その後しばらく経ち、あの美しい光景を思い出している時、ふと、”もののあはれ”という言葉が脳裏をよぎった。人間だけが、生と死の不条理を認識し、心を痛める。この世の矛盾を感じる力が強ければ強いほど、心に負荷がかかってくる。そのような心身の状態で生きていくことは、生物として耐え難いことだ。そのストレスこそが現代の病だと多くの専門家が言い、それを取り除く方法を教える商売が流行る。
 現代社会は、身をよじるような負荷を嫌い、それが無い状態を幸福だという迷信がある。楽しく快適なものが重宝され、ベストセラーや人気映画も、娯楽施設も商品も、その種のものが多い。そして、人の付き合いも就職も、心身の負荷が大きいものを選ぶ人は稀少だ。しかし、人間としての認識力や思考力があるかぎり、苦しい葛藤を避けようとしても、避けきれることはないだろう。楽な状態に慣れてしまえば、少々のことでも、負担になってしまうのだから。それでももし、そうした苦痛と無関係を願うならば、人間的な認識能力を完全に麻痺させるしかない。人間に認識能力があるかぎり、悩みは消えない。時には計算高くなったり、周りの目ばかり気にしまったり、取り返しの付かないことを後悔したり、無力感に苛まれたり、その状態を何とかしようとして、もがいたりする。
 しかし、不思議なことに、大きな負荷が心身にかかっている時にこそ、モノゴトの美しさや素晴らしさが、ありありと感じられるということがあるのだ。
 ただ、残念なことに、人間のすぐれた認識能力が、善い方向を志向しながら、悪い方向に作用しているのではないかと思われる悲しい現象が多い。
 たとえば、今日の社会は、人間から苦痛を取り除くとともに、人間や社会に有益であると考えられるモノを発見し、それを人間や社会に与えることで人間や社会をより良い状態にしようとする研究が盛んで、その種のビジネスも多い。身近なところでは、健康に関する様々な食品、飲み物、施設。また、よりよく生きるためのハウツー本、子供の学習能力を高めるための様々なグッズ、塾、化粧品の美容液や栄養クリーム等、現在の日本社会は、そういうもので溢れている。必要なものを補給することで良くなるという論理は、説得力があるので、多くの人が従ってしまう。しかし、与えられることによる弊害については、あまり伝えられることがない。
 ビタミン剤や栄養クリームに依存する体質になってしまうと、次第に、より多くのビタミン剤や、より高価な栄養クリームが必要になる。
 生物は、外側から与えられなければ、それに対応する術を生み出す能力を潜在的に備えている。マウンテンゴリラは、草食動物なのに、筋肉がムキムキだ。エチオピア人は、インジャラという穀類から、パプアニューギニアの高地民族は、芋類から必要な栄養素を吸収できた。必要なモノを外から与えすぎると、生物が本来備えていた能力を少しずつ眠らせてしまうのではないか。
 お節介サービスによって、外の世界に対する心身の呼応力とでもいうべきものが、失われていく。それは、人間から生きていく力を奪うことにつながっている。
 おそらく、健康ブームも、快適生活も、ヒューマニズムも、同じ思考のバイアスから生まれている。負荷とか苦痛は、よくないという発想だ。でもそれは、勝ちたいスポーツ選手から筋肉トレーニングを奪うことだ。そして、その硬直した考えを正当化するため、勝ち負けが大事じゃないと、したり顔で言う。
 しかし、悲しいかな、苦痛や葛藤や負担を軽くすればするほど、耐性が弱くなる。
 メディアなどでは、今日の社会はストレス社会などと言うが、明治時代の女工さんの労働条件の劣悪さや嫁と姑の問題や、その他のストレスに比べて、大したものでないだろう。
 現代はストレス社会なのではなく、人間がストレスを嫌いすぎて、それを避ける条件が整えられたために耐性が弱くなり、さらに小さなストレスからも逃げ続けなければならない負のスパイラルが、アリ地獄の様相を呈しているのではないだろうか。 
おそらく、このスパイラルから抜け出るためには、逆転の発想が必要なのだ。
 負荷を高めて、呼応力を呼び戻し、不条理の世界を生きていく耐性を身につけることが。

 生きることがただ耐え難いだけだったら、生物としての人間は存続し得ない。だから、人間は、人間ならではの美を知った。
 他の動物であっても、雄の羽の美しさに雌が惹き寄せられるという子孫繁栄のための”美”がある。しかし、人間ならではの”美”は、生殖の意義を超えている。人間ならではの認識力による苦しい葛藤からのせめてもの救いとして、美しいものと呼応できる心が芽生え、その”呼応力”を身につけることで、人間は、世の不条理を生き抜く耐性を備えた。”もののあはれ”の真意は、そこにあるのではないかと、今の私は思っている。