自分らしさ??

 保坂和志さんが、WEB草思で、「途方に暮れて人生論」という連載をはじめている。
 その第一回の文章を読んで連想したのだけれど、現在、非常に多いなあと思うのが、”自分らしく生きたい”、”自分らしく表現したい”などのセリフだ。
 「風の旅人」に売り込みにくる若い写真家や、編集者志望の人にも、そういう人は多いが、こうしたセリフを吐く人の作品や、志望動機文は、とても似通っていて、みな同じように見える。
 それに比べて、”自分らしさ”など全然意識せず、また周りの雰囲気に流されず、自分のやるべきことを苦労しながら地道にやり続けている人は、”その人らしい着目点”で、”その人らしい作品”で、いろいろ総合すると、”その人らしい生き方”になっているように感じる。そして、その人たちの作品は共通して今日のメディアに受け入れられず、それゆえ彼等は、自分が生きている社会を生きにくいものと感じながら、それでもタフに生きているようなのだ。
 意識しようがしまいが、”自分らしく”あるならば、生きにくさを覚悟しなけらばならない。しかし、実際には、”自分らしさ”を強く求めている人の方が、”生きにくさ”を避けて逃げるところがあるように感じられる。
 ”自分らしくて生きやすい”という、”自分らしさ願望”のある人たちにとっての都合のよいケースは、あまりないみたいだ。
 それにしても、なぜ、生きにくさを避けて通りたい人の方が、“自分らしさ”を声にすることが多いのだろう。
 先日、このブログに書いた関野吉晴さんにしてもそうだが、誰が見ても個性的で独自の人生を送っている人は、自己表現とか、自己実現など、微塵も考えていない。
 彼等の関心ごとは、自分を超えた外の世界であり、その外の世界と呼応したり反発したり心動かされる明らかな存在としての自分自身を常に確認している。
 もしかしたら、自分らしさを強く願望する人は、自分が一番可愛く、自分にしか関心がないのだろうか。そうだとしたら、可愛い自分が、生きにくい世界で惨め(と自分で思いながら)生きていくことは耐えられないから、それを避けて通ろうとするのは自然なことだが、それを避けることで、ますます自分らしさから遠くなって、さらに強く自分らしさを切望せざるを得ないという負のスパイラルに陥ってしまう。
 それはともかく、今日のテレビをはじめとするメディアが、「自分らしくて、多少の困難はあるけれど、軽々と乗り超えていく格好よい人生」という幻想ばかりふりまいていて、それゆえ、そうした「生き安さ」をイージーに手に入れたいと願う人が増えているのかもしれない。