映画のなかの人生

 映画「いつか読書する日」(緒方明監督)を見る。
 途中までは完璧な映画だった。美しい坂のある街、そこで生きる人々の息づかい、牛乳配達もスーパーのレジ打ちもとても神聖な仕事で、田中裕子の化粧気のない顔とか、ラフな服装で坂道や階段を駆け上がる姿がとても美しかった。また、傍目には劇的なドラマもなく、男女の間の浮いた噂もなく、淡々と毎日を繰り返しながら50歳まで生きて、そんな人生のどこか面白いのだと言う者もいるが、書斎にびっしりと積みあげられた書物に彼女の生きてきた時間の濃密さが感じられた。その濃密さゆえに、風景の細部も、ちょっとした物音や足音も、何気ない動作や会話も、深い趣が感じられ、全てがとても美しく見えた。
 本当に途中までは、生きていくことの機微が隅々まで通っていて、素晴らしい映画だったのだ。
 それがいったいどうしたことだろう。最後に近いところから、急激に安っぽい筋立てになってしまった。同じ監督が作ったとは思えないほど、落差を感じた。なぜあのような展開にしなけらばならないのか、私には理解できない。
 彼女が、一人静かに、美しく孤高のままで終われば、映画を見た後、胸のなかに美しい問いが残ったのだけれど、それは私の価値観のバイアスからくる感想なのであって、やはり違う見方をする人が大勢いるからこそ、ああいう展開が支持されたのだろうか。
 私は、この映画を見ながら、以前、「花」(西谷真一監督)という映画を見た時の感動と等しいものを知らず知らず期待していたのかもしれない。

 あと、小栗康平監督の9年ぶりの新作「埋もれ木」を見た。22年ほど前、小栗監督のデビュー作である「泥の河」をパリで見た時、とても感動した。登場人物の子供たちが、まるで自分の幼年時代のようで、子供が子供なりにもっているモゴモゴとした心の葛藤の描写や、加賀まり子の妖艶で透きとおった美しさを、今も鮮明に思い出すことができる。それ以来、全ての作品を見ているが、なにぶん、小栗監督は寡作なゆえに、次号を楽しみにしながら、楽しみに待っていることすら忘れてしまった頃に、新作が出る。
 その間に自分も年齢を重ねているわけで、小栗監督の新作に出会うたび、過ぎ去った時間に愕然とする。これまでは6年間隔くらいだったが、今回は9年も経ってしまった。
 私は、小栗監督の文章も大好きで、とりわけ「哀切と痛切」というエッセイの、淡々としながら行間に自然と滲み出てくる痛みが、とても美しい。
 それはともかく、今回の「埋もれ木」は、これまでの作品と同様、解説のしようがなく、映画という媒体の緻密で豊かな質感だけが、広々と、深々と心に残る。
 何がどう素晴らしいか、批評の余地がないが、映画を見る自分も、映画のなかの時間を間違いなく生かされていると感じられる見事な身体体験が、ここにあるように思う。神は細部に宿る。そして人生もまた。