マンネリズム

 マンネリという言葉は、その言葉を投げつけられる側に問題がある場合もあれば、その逆の場合もあるように思う。
 マンネリというのは、ようするに新鮮さを失うことなんだろうと思うが、見る側が、どこを見るかによっても感じ方が異なってくる。
 たとえば自分が付き合っている相手の服装しか見ない場合、同じような服装ばかりだとマンネリを感じるだろうし、服装よりも相手の仕草や表情に惹きつけられて、いつまでも飽きない類の人もいる。
 そのようにマンネリという感覚は、マンネリを感じる側と感じられる側のどちらに原因があるか曖昧なのだが、それを一方が相手に言い放った段階で、言い放った側が強い立場に立つような錯覚を与える。
 別れ話で、「あんたが退屈だからよ」と言われてしまえば、言われた方は、なかなか言い返すことができない。
 絵画でも小説でも彫刻でも何でもいいのだけれど、黙々と制作を行っていて、ある日突然、「あなたの作るものはマンネリだ、見る側の意見も参考にしなさい」と言われても、その人は戸惑うばかりだ。
 今日の社会は、とにかく目新しいものが求められているので、「マンネリ」という言い方は、相手を否定するのに一番効力を発揮する言い方になっている。そして、この言い方は、自分のことを棚上げにして相手を攻撃できる力がある。
 「マンネリ」という言葉の背後には、消費者は神様で、その消費者に退屈感やマンネリ感を感じさせないものを提供しなさいという暗黙の強迫がこめられているように感じる。
 だから、企業は新しいサービスをどんどん作る。車もバッグもファッションも、どんどん新しいデザインになる。店の内装も、しょっちゅう変わる。テレビでも、バタバタとうるさいタレントが次々と起用されて消費されて、渋い玄人芸の人は登場しなくなる。男女関係でも、目新しい彼氏がたくさんいて、食事とかドライブとか、いろいろなニーズに応えられた方がいいと思う。それが進歩だ。何が悪いと言われればそれまでだ。
 しかし、相手にばかり目新しさを求め、マンネリの解消を要求しているうちに、自分のやっていることじたいがマンネリ化し、自分という人間が退屈で味気ない存在になってしまう可能性もある。
 とりわけ、今日のメディアは、他者を査定するばかりで、自分に対する査定の仕方がわからないものだから、深刻なマンネリスパイラルに陥っている。今日のメディアのスタンスの多くは、一目を引く大雑把な演出で物事の機微を損ない、他者を好きかってに査定してはしゃぐ特徴を強くもっているため、自分を省みず、表層の変化しか見えない人々を再生産していく、マンネリ伝染病のウィルスのようになっている。
 外に期待して要求しても、自分の状況は何も変わらない。それぞれの人が、自分が行っていることに対して、マンネリを感じていないことが第一だろう。
 言論の自由だからといって好き勝手に他人を査定することよりも、自分で自分の状態を常に新鮮に感じられているかどうか。もしくは、そういう分別すら考える余地がないほど、毎日を必死に生きているか。結果的に、そうしたことの積み重ねが、自分の行為や言論に反映されていくのであって、表層的なことよりその内容の密度こそが問われなければならないと思う。人生において大事なことがそこにシフトする時、マンネリとか退屈といった言葉は、その言葉を発する人の内面に投げ返されることになるだろう。