多様性と可能性

 午前中、東京都庭園美術館で開催されている「庭園植物記展」を見てくる。この美術館は、アールデコの建物の雰囲気がよく、特に今日のような雨の日に、館内から庭園の濡れた緑を眺めていると、とてもくつろいだ気分になる。

 館内でやっている展覧会は、幕末期の植物画から現代の写真作品に至るまで、日本における植物表現に焦点を絞っている。「芸術性を追求したものから植物の真の姿(本質)に迫ろうとした植物研究のために制作されたものが含まれている」とチラシに書かれているが、主催者側が「芸術性を追求したもの」を意図して集めたことが明確なものは、作意性が強すぎて、つまらなかった。それよりも、芸術表現など意識せず、植物の特徴を捉えようと丁寧に観察しながら模写している作品が美しいと感じた。そういうものは、植物のディティールのなかに豊かさが凝縮していて、それを見つめる作者の驚きというか心のふるえのようなものが伝わってくる。しかし、芸術表現を意識したものは、ディテールがない。着色の派手さで人目を惹いているが、それは、歓楽街の煽情的なネオンと同じだ。盛り場のネオンは、それなりに綺麗だが、その意図は、ネオンの裏側にあるものをカムフラージュすることだろう。見る側を幻惑して本質を見させないことだろう。1000円の価値の飲み物や食べ物に、10,000円を支払わせることだろう。歓楽街には歓楽街の経済原理があるから、それはそれで構わない。しかし、芸術表現にそれを持ち込み、その種のものに理屈をつけて必要以上に美化する現代の評論活動には、とても賛同できない。評論家とか美術館の学芸員とかが、目新しそうな表現を取り上げることで、自分が先端を走っていると勘違いしている人が多い。その新しさとは、本質的なものではなく、奇をてらった煽情的なものにすぎないのだけど。

 そうしたパフォーマンスは、とてもテレビ的で、その種のものが増えると、ものごとをきっちりと見分ける目を蝕んでいくように思う。

 100年前の表現に比べて、現代の表現は進化するどころか、その多くは劣っている。テレビ的な見方によって、何か大切なことが殺ぎ落とされている。

 多様な表現といいながら、実のところ、個別な細部を奪うことによって、植物に固有のものが掻き消されてしまい、植物も他のいろいろなものも一律に見えるものになってしまっている。丁寧に見なくても、派手な色彩を使った単純化で見てすぐに分かったつもりになってしまうものになっている。派手なパフォーマンスや「わかりやすさ」が大手を振るうのは、昨今の政治の世界でも同じだ。

 しかし、実際の世界は、もっと渋く微妙な階調があるものだ。多様性とは、種類の多さではなく、陰影や機微の深さなのだ。陰影や機微から生じる動きの可能性の幅が多様なのだ。既にできあがった状態が一見多様に見えても、そこから生じる次段階の可能性の幅が狭められている時、その状態は多様であると言えない。

 現代社会は、いろいろなものを買えたり、食べられたりして、いろいろな生き方ができるような気がしてしまうが、自分自身に機微がなければ、可能性の幅も生まれず、いろいろな生き方はできやしない。

 多様性を尊重するという言葉が「平和」の代名詞のようになっているが、既に獲得された状態よりも、その状態がこれからどう展開していくかということに対して、もっと注意を払わなければならないだろう。