共感とズレ

 土曜日に中村征夫さん、日曜日に関野吉晴さん、月曜日に野町和嘉さん、火曜日(今日)に浅井慎平さんと会い、リニューアルされた10月号を見せたりして、いろいろ感想を聞いたり、意見を言い合ったりした。浅井さん曰く、「昔は編集者と会って、飲みながらアレコレ意見を言い合ったが、最近は、FAXで「よろしくお願いします」で終わり、だそうだが、私は一人で編集していることもあって、作家とか写真家と対話をしなければ、前に進めないというか、自分の中から自分の気づかなかったことを引き出すことができない。

 といって、いろいろな意見に影響されるということではない。みんなそれぞれいろいろなことを言うわけで、Aの人が良いと言ったものを、Bの人はまったく違う評価をする。だから、いろいろな人の意見を聞いてそれに合わせていたら、中途半端になってしまう。けっきょく、自分が納得できるものはどういうものか、という心の声に従ってやるしかない。といって、いろいろな人の意見が無意味ということではない。白か黒かという結論はどうでもよくて、そこに至るプロセスのなかに、大事なことが凝縮している。というか、そのプロセスを感じさせてくれない人と話しても、面白くもなんともないし、何も、学ぶところもない。

  学ぶべきことは、黒か白かではなく、そのプロセス全体が作り出す微妙であるけれど確かだと感じさせる「志向性」なり、その人なりの「展望」のようなものだ。これがない人の意見を聞く時ほど、うんざりさせられるものはない。

 学びたいことは知識ではなく、世界への向き合い方の、その人ならではの方法論だ。といって、その人の方法論を真似したいということではなく、その方法論を導き出す懐の深さを感じることによって、世界の奥行きや世界との付き合い方の幅が感じ取れる。それが、私にとって、学ぶということのような気がする。

 好き勝手にやっているわけではない。といって、どんな人の意見でも左右されてしまうわけではない。学べる人から多くを学び取って、感じ方の幅を広げ、自分が作り出すものの説得力を、より高めることは大事だと思う。

 でもその前に、学べる相手かどうかの見極めが大事で、相手の実績とか肩書きに騙されないことが肝要だ。

 その見極めのポイントは、私の場合、自分の言葉で自分の実感する未来を語れるかどうか、もしくは、語ろうとしているかどうか、ということに尽きると思っている。

 未来を語るというのは、ポジティブに理想を語ったり、ネガティブに終末を語ることではない。過去の流れ込んだ現在にあえぎながら、信頼に値する(だろうと願う)未来を手元に引き寄せようと真摯に闘い、それを形に表すことではないかと私は思う。

 そういう意味で、中村さん、関野さん、野町さん、浅井さんといった人々は、未来に対する真摯な姿勢が伝わってきて、意見が食い違うことがあっても、話していて何かしら感じるところは多く、お酒を飲んでいても気持ちよく飲める。共感し合うだけでなく、それぞれが真摯でありながら食い違いやズレが生じるところが妙におかしい。