私たちの偏った視点

 

 今年の紅葉は、遅かった。庭の桜もようやく色づいた。自然教育園の紅葉は、昨年は今頃が盛りだったが、今年はどうだろう。雨が降っているが、見に行ってこよう。

 今年の秋、本橋成一さんのポレポレ座が主催した収穫祭で、落ち葉を掃くのに便利な竹箒を二本買った。現在、日本では、この竹箒を作っている人はほとんどおらず、店にあるとすれば輸入品だそうだが、私が買った竹箒は日本製だ。手作りで一本一本作って販売価格は500円ほどで、大きいから流通コストもバカにならないわけで、作り手がいなくなるのも仕方ないのかもしれない。でもやはりこの竹箒というのは優れもので、落ち葉を掃くのがすごく楽になった。都会では、こうして落ち葉を掃く機会もあまり無いわけだから、竹箒の必要はあまりないが、竹箒とか落ち葉とか実態のある物と付き合っていると、この世は、“関係性”というもので成り立っていることがよく見えてくる。

 桜の木は手間がかかる。それでも、桜を切る気にはなれない。今の家を建てる時も、もともと敷地にあった樹を全て残すことを前提に、それが無理な場合は、他の場所に移し変えて対応した。

 一本の樹を中心に、いろいろなモノとモノとの関係性が生まれる。自然教育園からメジロツグミヒヨドリが飛んでくることもある。カラスもやってきて、くわえたゴルフボールを落とす。この前は、たぶん公共のゴミ置き場からくわえてきたのだろうが、犬のフンの入ったビニール袋を庭に落とした。町中で犬を散歩させる人は、スーパーなどでもらうビニール袋を持って歩き、犬がフンをするたびに自分で処理し、ゴミに集配に出すことがモラルになっているからだ。

 桜の木には、アメリカシロヒトリをはじめ、なぜか毛虫がよくつく。あまり増えすぎると、葉っぱが食い荒らされて、丸裸にされてしまう。今年は、様子を見ながら、薬を使うことを躊躇していたのだが、やはり夏場に毛虫がうじゃうじゃと出てきた。それで、私の部屋のちょうど前の枝の所で、まるまると太ったカマキリが毛虫を襲っていた。このカマキリにとって、この桜の樹は食料の宝庫なんだと思いながら見ていると、そのカマキリは、枝から枝へうまく移動できずに、落ちてしまった。身体が重すぎたのだろうか?

 このように一本の樹木の周りにいろいろな関係性が生じ、誰もがその円環のなかで生きている。樹木にかぎらず、私という存在を中心に、家族や友人がいて、仕事関係の人々がいて、語り合ったり、喜び合ったり喧嘩したり、じゃれあったり、叱ったり叱られたり、様々な交流があるし、通勤のために毎朝通る道沿いの風景や空気の違い、食べるモノや飲むモノ、手に触れるモノ、目に見えるモノ、耳に聞こえるモノなど、私たちが一人でいても、直接、感受できる世界がある。

 私たちが本当の意味で経験し、実感し、住んでいる世界は、そういうものだ。そういうものたちとじっくりと付き合えば付き合うほど、そこに豊かなものがあることがわかる。その豊かさは、元々そこにあるものだが、深く付き合うことで、その豊かさが見えるように自分が改良されていくといった方が正しいだろう。

 おそらく、昔の人は、この実感のある世界の中で、豊かな自分になりつつ生きていくことが出来た。

 しかし、悲しいかな、現在では、その豊かさが見えなくなる仕掛けができてしまった。豊かさが無くなったのではない。豊かさが見えなくなる方向に自分が導かれていく仕掛けに、人生の隅々まで支配されているだけなのだ。

 その仕掛けというのは、物質文明とか娯楽の氾濫とか、そういう表層的なことではなく、もっと根本的なことだ。

 私たちが住んでいる世界が、自分を中心として広がる円環のなかの実感ある世界ではなく、自分の手が届かないところまでも水平に広がっていく並列的で多様な世界であるという認識を植え付けられていくことが、その仕掛けなのだ。

 これは、「自分の実感できないモノも、世界なんだぞ!!」と強迫観念のように主張してくる力だ。このように実感のない世界をどんどん広げていくことを仕事としている人は現代社会に多い。広告業界やテレビ人などのメディアはその代表だが、学者や教師の多くもそうだろう。

 また、「世界には飢えた人がこれだけいます!!」と主張してお金を集める人も、その集められたお金の一部を自分の生活資金や活動資金にしているので、仕事という意味では同じだと思う。

 良い悪いは別にして、テレビや広告や教育や世界の貧困救済キャンペーンは、同じ構造のなかにある。世界地図を広げ、自分の立っている場所や実感とは関係なく、水平にどこまでも広がる世界を意味ある世界とみなし、そのなかにある並列的で多様なモノに価値があるから大事にしようと説いて、それを言葉によって頭に記憶することを求めること。そして、実感が伴わなくても行動することを促すこと。同時に、自分を中心とする実感のある円環の広がりを、狭く閉じた自己本位的なものとして否定し、その円環のなかで身体が感じる言うに言われぬ思いを押さえ込むこと。こうした原理がなければ、広告も通用しないし、救済キャンペーンも成り立たない。また、教科書に添った授業しかできない教師や、専門分野の知識をできるだけ多く知っていることで権威を保つ学者も、これで助かる。

 といっても、現在に限らず、人間は言葉を作り出し、情報を操ることに長けているから、いつの時代でも、水平の並列的な広がりを志向する傾向は持っていたのだと思う。しかし、かつては、同時に自分を中心とする円環的な世界も大事にしていたのではないか。

 東洋文明を円環重視、西洋文明を直線重視とする研究もあるが、実際にその地で生きている人間は、その両方のバランスをうまくとって生きていた。

 直線的な世界観と言われるキリスト教文明圏でも、人々が教会に行って祈る相手は、その教会に祀られる聖人であり、その聖人は、土着の神の人格化(大地母神=聖マリア=ノートルダム寺院)のようなところが多いわけで、その地方ごとの円環構造があって、人々はそのなかで生きていた。第一、教会を中心として、そこから放射状に広がる町の作りがそうなっている。

 また日本だって、永遠回帰を軸にした宗教をはじめ、東洋的な円環構造のなかで多くの文化が生み出されてはいるが、天皇制など古代から脈々と直線的に続いていく系図を社会構造の中心に置いているわけで、やはり直線と円が同居している。

 だから、円環か水平かという二者択一ではなく、そのバランスが大事なのだ。そういう意味で、現在の問題がどこにあるのかというと、そのバランスが大きく崩れていることなのだろう。

 なぜそうなるのかというと、一方の発言力が極端に強くなっていて、みんながその声に、右へ倣えをさせられているからなのだ。ややこしいのは、現代の様々な矛盾を主張する人の多くも、その矛盾の原因になっている水平的広がりの中の実感のない断片的知識を重視する思考特性の人が多いことだ。

 人を教える立場の人、人を啓蒙する立場の人、情報を操る環境を独占している人など、元々、水平的思考の傾向が強く、その思考の扱いに長けていているからこそ、今のポジションを獲得している。その人達にとって、その傾向を変えることは、自分たちの優位を放棄することでもあるから、それはしたくない。だから、ますますその傾向を加速させる。この悪循環が、今の日本を覆い尽くしている。

 私は、たとえば「風の旅人」の12月号で、チベットの暮らしを取り上げた。そこには、家族を中心とした美しい円環の世界がある。しかし、それを見せて、日本もそこに戻らなければならないなどと主張するつもりはない。そうではなく、チベットなどの国を、ステレオタイプ的に、”悲惨”で紹介する情報操作に対して憤りを感じるのだ。彼等が言う”悲惨”は、私たちが陥っている「水平的広がりのなかの多種多様な量と安楽と利便性」=「豊かさ」というバイアスから見たものにすぎず、チベット人チベット人で、自分を中心とした円環の広がりのなかに、自分なりの豊かさを見いだしている。

 その人たちがどういう精神世界に生きているか、まったくわかっていないし理解しようともしない人が、ただの外形だけを見て、貧しいとか、過酷な労働だとか、自分たちの理解できる範疇の類型にあてはめて論じる人が多い。その人たちは、チベット人の仕事の神聖さや、そこから生じる喜びを感受できていない。その程度の貧しい感受性なのに、それを自覚できていない。

 さらにどうしようもないことは、第三世界の労働の過酷さを少し体験するためという理由で、子供に2時間ほど畑仕事をさせて意見を聞くことが教育現場で行われたり、メディアに取り上げられて、神聖な仕事が矮小化されることだ。そうした態度は、「働くことは食うための経済行為であり、それは元々苦痛に満ちたモノであるけれど、その苦痛を楽なものにすることが社会の進歩である。」という価値基軸を押しつけるもので、自分たちの社会の優位性を改めて認識しようという魂胆にすぎない。 

 畑仕事の苦痛よりも、本当は仕事の喜びを知るべきなのだ。そうしないと、生命活動(単なる経済活動ではなく)としての仕事の意義もわからないし、生きる喜びもわからないし、そこに根を張っているチベット人の心も感受できない。

 「感受できていなくても自分の知っている範疇で平気で論じてよい」というのが、この国の言論の自由だから、その横柄なバイアスに乗じる人も多い。

 しかし、本当に憐れなのは、自分たちの偏狭な思考でしか理解できない世界を世界の全てだと信じ込まされている私たちだろう。

 その偏狭な思考特性のために、どれだけたくさんの異なる物に囲まれても生きていることの有り難みを感じることができず、簡単な仕事さえ苦痛に感じてしまい、だからといって、何もせずにダラダラと日々を過ごしても空虚に蝕まれて、その空虚から逃れるために強い刺激を求めたり、ブランドや名声やステイタスなどといって権威に頼って虚勢を張り続ける生活の、いったいどこが素晴らしいというのか。そんな生活は、実のところ滑稽でしかないだろう。しかし、その滑稽さを面白く演出して売り出そうと謀る人もいて、それをメディアがもてはやしたりするから、話しはますますややこしくなるのだけど・・・。