人間という自然

 人間は自然を破壊することはできない。

 これだけ都市化が進み、人工の物ばかりに囲まれていても、自然は死んでいない。たとえ核戦争が起きて、地球が火の海になっても、自然が死ぬことはない。コンクリートだって、放射能だって、自然の一部にすぎないのだから。

 人間の環境破壊によって、森が無くなったり、生物の一部が死に絶えていく。しかし、森が砂漠となり個体としての生物が死に絶えたとしても、自然が死んだわけではなく、自然の他の様相に変容したにすぎない。宇宙の誕生の時から、地球誕生の時から、そうした自然の変容は何度も繰り返されてきた。

 そもそも自然を、分離された個体の集まりとして捉えるのが間違っている。個々のものを中心に広がる円還のなかで、個々と個々とが相互に関係し合い、影響し合いながら変容を重ねていく、そのダイナミックな力こそが自然であると認識し直すべきではないか。

 砂漠という環境があれば、そこに適応する生物が生まれる。その生物が増殖していくことで、別の新たな環境世界が生まれ、その環境に適したものが増えていく。

 そうした根元的な力を、人間ごときが破壊できない。人間も自然の一部だから何かしらの影響を与えることはできる。しかし、そこからまた新たな展開が生まれるだけなのだ。 人間は、自然を破壊することはできない。しかし、人間は自然の一部である人間を破壊している。それは人間の生存環境を破壊していることや、たとえば交通事故や戦争などによって、多くの人間個人を殺してしまっているということに留まらない。人間は自らの手によって、自然の円還のなかから自分を追い出している。自らが好んで、関係性の外に立っている。「自然は円還のなかでの相互作用と関係性である」という認識に立てば、人間の行っていることは、自然である筈の人間を破壊していることになる。それは物理的にそうだという以前に、意識としてそうなってしまっている。意識がそうだから、事実が後についてきている。

 この破壊は、今日の人間の思考特性からはじまっている。「世界」を、自分が感受できる円還の広がりのなかの関係性が統合されたものとして捉えず、自分が感受できない水平の広がりのなかの並列的で多様な個体のバラバラの集まりだと捉え、そのバラバラの一つが自分であるという錯覚こそが、自分の破壊につながっている。

 人間の手が入っていないものが自然であり、人間の手が入ったものは反自然であるという、アメリカの国立公園や捕鯨反対運動などに代表される狂信的な錯覚も、同じ思考特性からきている。人間も自然の一部であると知れば、自然の円還のなかで人間の営みをバランスよく位置づけられることこそ、自然に即したことと知るだろうから。

 捕鯨反対をはじめ、「自然を破壊するな、自然を守れ!!」と声高に叫ぶ人たちは、人間の魂が破壊されていることこそが今日の一番痛切な問題であると気づいていない。

 魂とは何か?それは、自分を取り巻く円還の中の相互関係のなかで、響き合ったり、呼応したりしながら育まれていく自分の心音のようなもので、その微妙な鼓動によって、森羅万象の機微を知り、関係する相手の本質的な生かし方を瞬時に察する。それは超能力ではなく、今でも職人さんなどにおいては、当たり前の能力だ。

 今日、私たちは、職人として生きていける人はごく僅かで、ほとんどの人が、並列的で多様でバラバラの集合体のなかで、並列で多様でバラバラのものを再生産し、それを並列で多様でバラバラの人たちに買ってもらうことで生計をたてている。

 家のなかの溢れる物も、並列で多様でバラバラなものばかりで、コーディネートをしたとしても、表層的なデザインを合わせているにすぎず、それぞれが有機的に関係し合って統合されているわけではない。

 物と物とが関係し合わなくても、例えばキズや凹みや、磨き抜かれて黒光りする廊下など、人間との関係性がしみじみと浮かびあがるものがあるだけでもいいのだが、そうしたものは嫌われ、なんでもかんでも新しく漂白されて、のっぺりとした感じになってしまう。

そのようにサイクルしていかないと、並列で多様でバラバラなものを再生産していくことで生計をたてる多くの人たちが、困ることになるからだ。

 今日の人間は、そういう構造のなかにいる。破壊されていくのは、人間の魂である。人間の魂を取り戻す為には、まず自然からの授かりものである自分の身体を使うことを始めなければならないだろう。そして、都市化が進んだ環境世界にいても、自分を中心に広がる円還のなかで、自分の心音に響いてくるものに注意を向けることから始めなければならないだろう。そうした運動を阻害しようとする雑音を遮断するのではなく、斜めから見て、自分の心がどう反応するのか冷静に耳を澄ませたうえで、自分との関係性に思いをはせることも大事だろう。ポジティブなものもネガティブなものも、自分の心に作用している。そうしたものはすべて自分の円還のなかにある。自分の円還のなかにあるものを無理矢理に排除することはできない。排除するのではなく、自分とどう関係しているのかを自分の感受できる範囲で知りたいと願い、アンテナを張り続けることから、少しずつ新しい魂が育まれていく。自分の生きている間には無理でも、(これが一番大事なことだが)次の世代に受け付けばいいという根気と冷静さがありさえすれば、それは充分に可能なことだと思う。性急さは、魂の育成と一番逆行することだから・・・。