多田富雄さんと生命力

 12/3の夜、NHKスペシャルで、脳梗塞で倒れた生命科学者の多田富雄さんのドキュメントがあった。

 こういう番組をきっちりと作る余地がこの国に残されているのだと思うと、救いを感じる。毎日の膨大なテレビ番組のなかで、たった一本でもこういう声になりにくい声をひろいあげるような番組があれば、いろいろなことが少しずつ変わっていくのではないかと思う。

 脳梗塞で倒れ、右半身が不随になり、身体を動かせないだけでなく発声もできず、食べ物や飲み物をうまく摂取することもできないし、それでも飲み込んだら食道ではなく気管に入ってしまったりする。それなのに、意識だけははっきりとしている。意識がはっきりしている分だけ、地獄だろうと想像する。

 多田さんは科学者だけど、とても美しい文章を書かれるので、「風の旅人」への執筆を依頼したいと思っていたが、病気だと知り、とてもお願いできないだろうと思っていた。

 でもこのたび、自分の今の状態をありのままにテレビの前にさらけ出した多田さんを見て、多田さんの研究の根本にある「生命」に対する考えと姿勢が、どんな書物よりも強い説得力をもって、迫ってきた。

 死んでしまった方が楽に違いないし、何度もそうしたことを考えている。でもやはり、生き抜こうとする意志が自分のなかにある。それはいったい何ものの力なのか。

 発声できなくても明晰な意識は残った。使える指で、ワープロのキーボードを一つずつ打って言葉にしていく。そうして意志を伝える。創作もまた、意志の伝達が濃縮し昇華したものだ。その最も高められたものが、生命科学者として科学者の業を充分に知り尽くしたうえで制作された原爆能だ。科学者が、全身全霊を賭けて、あの世から舞い戻るように能をつくり、演出を行う。科学の時代であった20世紀を超えて21世紀を生きていくために、とても深い意味が示されている。

 そして、科学者である多田富雄さんの半身不随は、まさに現代社会の置かれた状況の象徴のようでもあり、そこからの克己も、多田さんの生き様を通して伝えられる。

 半身不随で、どんなにもどかしくても、一つ一つ前に進んでいけば、何かができる。遅い速いではない。多いか少ないかではない。長いか短いかでもない。1000枚の原稿用紙に論文を書くことも、気の遠くなるような時間をかけて左の腕を持ち上げ、指を伸ばし、「あ」という文字のキーボードを打つことも、全身全霊であるからこそ、本人にとって同じ重さの創造行為なのだ。

 食べ物や飲み物にしても、何の不自由もなく量も種類も豊富に食べることができれば幸福のような錯覚があるが、スプーンの上のスープ一杯を全身全霊で飲み干すことができれば、それだけでも至福なのだ。もちろん、私には、そこまでの感覚は実感としてわからないが想像することはできる。食べたり飲んだりしようとする時の多田さんの痛ましさと、涎をダラダラと流しながら、何かが胃袋に到達したことを実感した時の至福の笑顔を見ると、この瞬間に生命というものの本質が凝縮しているのだと胸を打たれる。多田さんは、意識が明瞭だし、ダンディな人だから、この自分の映像を見ると、やはり、恥ずかしさや情けなさを感じるのかもしれない。しかし、そのように損なわれてしまった自分を通じて、生命の本質を、できるだけ多くの人に感じてもらおうとする満身創痍の闘いは、凄まじく美しい。

 生命とは、”全身全霊”であること。そして人間にとっての生命力とは、精神力に支えられたもの。

 この世は、思うようにならない。いろいろな局面で障害とぶつかり、やりきれないことも多い。どうしようもないと絶望し、どうでもいいや、と開き直ってしまいたい時もある。「風の旅人」という雑誌一つと関わっているだけでも、「こんちきしょう」と、憤懣やるかたない思いになったり、心が引き裂かれることも多い。「こんちきしょう」という思いは、人に対して向けられることもあるし、自分に対して向けられることもある。 

 しかし、「こんちきしょう」という思いが、身体の深いところで渦となって揺らぎ、生命の底深い力に転換することも実感できる。

 怒りもまた生命力の発露だ。その怒りを、精神病院の電気治療のように取り除いて鈍感にしようとする策略が、この世の至るところに仕掛けられているが、私は、その怒りを持ち続けようと思う。大事なことは、怒りを無くすことではなく、その怒りの発露の仕方なのだ。

 多田さんの言葉や、能のなかには、自分の目指す理想と現実とのギャップのなかで生じる怒りややり切れなさを震える自分の掌で何度も握りしめて、大きく息を飲み込み、少しずつ息を吐き出しながら、異なる次元の「かたち」に昇華させていこうとする祈りのような思いが漲っている。

 まさに全身全霊で。強靭な精神力に支えられて。

 人間が人間の魂を破壊していく今日の様々な仕掛けのなかで、そのあざとさや、狡っ辛さをあぶり出すのは、この精神力に支えられた全身全霊の生命力ではないか。

 もちろん、一つのケースで、すべてが入れ替わるほど簡単なものではない。

 しかし、だからといって、他にもっとひどい状況があるとか無いとかダラダレと評論していても、何も変わらない。一つのケースのなかにキラリと煌めくものがあれば、それを敬虔に受けとめ、それを少しでも増幅させる努力をしていくしか他に道はないだろう。そのキラリと煌めくものを感受できる少数の人からしか、大事な問いかけは行われないし、モノゴトも新しく始まらないだろう。