自己都合と相思相愛

写真の売り込みに関して、10/4に下記のことを書いた。

 → http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20051004

 これを読まずに直接電話してきた場合は、「10/4の編集便りを読んで下さい」と言うことにしている。それに対して、「わかりました」と答えない人は意外と多い。なんでそんなもの読まなければならないんだ、みたいな受け答えもあるし、「パソコンが壊れているので、その内容を電話で話してもらえませんか」と、図々しく言う人もいる。

 また、最近、求人をしたのだけれど、人の採用も10/4に書いたスタンスと基本的に同じ筈なのに、それがわかっていない人が多い。その前に、就職という人生の節目なのに、このブログを遡って読んでいない人も多い。

 たとえば、志望動機をワープロで打って、「手書きの文字だと自分の癖が強くて、それが嫌だから、ワープロにしている」と敢えて伝えてくる人もいる。

 写真の売り込みにしても、求人への応募にしても、自分が行動を結果に結びつけるために、大きな勘違いをしている人が多い。

 悲しいかな、多くの人は、自分しか見えていない。もちろん、毎日の営みの大半は自分しか見えていなくてもいいと思うのだけど、モノゴトには勝負時というものがある。ライオンが獲物を狙う時や、インパラがライオンを振り切って逃げる時など、自分しか見えていなければ、失敗するだろう。

 友人と遊ぶ場合と違い、写真を売り込んだり、就職を目指す場合、それを受ける側には、多大なるリスクが生じている。ボランティアで働きたいというのであれば、多少、人選に失敗してもダメージは少ない。しかし、人を雇って賃金を支払わなければならないのだから、相手をきっちりと見極めたいと思うのが当たり前だ。しかも、マニュアルを覚えれば明日からでも実践で役に立つような仕事で大量の人を採用する必要がある場合は細かなことは言っていられないが、たった一人か二人、しかも、すぐには実践で役には立たず、その間も給料を支払わなければならない人を雇うのだ。勝負時をわきまえていたり、潮の流れやモノゴトの機微が読める人の方が成長も早いことが予感でき、そういう人を採用したいと思うことは、経営側にとって普通のことだと思う。肩書きだけで人を判断する企業もあるけれど、それは、その程度の人選でできてしまう仕事を自分達が行っていることを自分の経験で知っているからにすぎない。詳しく言うと、日本の教育制度で成績の良い人は、言われたことをきちんとやる能力はあるし、失敗の少ない人だろうから、それで充分だという判断で、そういう会社は、人の採用にあたって創造性など求めていない。といって、日本の教育制度に反発したからといって創造性があるわけではない。ようするに、私にとって学歴なんてどうでもよく、人選のポイントは最初の出会いに凝縮している。

 剣をもって向き合った時、自分をあからさまに出していて、かつ、相手を自分の側に引き込む美しい構えができているかどうか。

 「手書きの文字だと・・・」とか、「パソコンが壊れていて・・・」というのは、自分にとっての言い分であるかもしれないけれど、その人を採用することでリスクを負う相手にとっては、そんなことはどうでもいいことだ。

 就職にしても写真の売り込みにしても、相思相愛になれなければ意味がないのに、「パソコンが壊れていて・・・・」などという言い訳のように、自分の魅力を半減してしまうことが平気で行えてしまうところが、やはり、自分しか見えていないということなのだろうが、その勝負勘の悪さが、一緒に仕事をしていてもストレスになるだろうと予感できてしまう。

 仕事は、節目節目で、勝負が懸かっているのだから。

 そういう言い方をすると、モノゴトは勝ち負けでないとか、結果は重要ではないとか、勝ち組みと負け組みの落差がどうのこうの、負け組みの救済をすべきだ云々と、わけ知った顔で言うインテリ気取りもいる。

 でも私は、こうした言論がのさばり、それに胡座をかいてしまう風潮があるからこそ、胡座をかく人と、胡座をかかない少数の人との落差が極端になってしまうのではないかと思うこともある。

 たとえば漁業であれ農業であれ、どんな職人であれ、<かたち>ある結果を求めて技を磨き上げていく。自分の技をみがき、相手の動向を読むことに神経を集中する。全身全霊で、自分と相手の関係を最善のものにしようと努める。自分ひとりの考えを主張しても、魚は獲れないだろう。多くの人が、そうしたことを当たり前のこととして捉えていれば、いろいろな警戒や牽制が行われ、簡単には騙されないし、すべての勝機を見逃してしまわないし、格差がついても、それ相応の範囲でとどまるのかもしれない。

 現代において、農業とか漁業に携わる人は少ないが、企業現場であっても、この原則は変わらないと思う。長期間にわたって結果を出し続けて社会から信頼を得ている企業は、そうした文化がしっかりと根づいている。利益を出している企業を一緒くたにして拝金主義で悪の権化のように言うインテリ気取りの言説こそが(そういう人に限って、国民人気のあるイチローや松井が何億円稼ごうが決して非難することはないが)、どんな生物でも備えている当たり前の原則を歪めてしまい、その間違った言説にもたれかかって勝負勘を失っていく人を増やしてしまう。

 もちろん、そうした言説にもたれかかることで幸福になれれば問題はないのだが、実際には、そうはなりにくい。なぜなら、生きていくことは、どんな場合でも、<かたち>ある結果を求めて自分を変化させていくことの連続だからだ。

 それは、人間よりも遙かに長い歴史を生きてきた昆虫を見ればわかる。

 自分をこわいものに見せて補食を免れようとしたり、餌となる相手の警戒を解くために自分を無害に見せるなど、イジマシイまでの努力を重ねて、昆虫は姿形を変化させている。

 生きのびよう、よく生きようと、意識を集中して学習して工夫し、いのちがけで努めた昆虫の姿は、奇怪であるかどうかという分別を超えて、存在の美を放っている。

 どんなに生存環境が変わろうとも、生物の生存の原則は何億年と変わってない。数百万年年の歴史しか持たない人間が、その範疇を超えることはできないだろう。

 <かたち>ある結果というのは、自分だけを見ていてもダメで、相手あってのもの。朝から晩まで全身全霊で四方八方に気を注いでいても、エネルギーの過剰浪費のため、生物生存の原則にしたがって衰亡する。だから大事なのは、バランスであり、そのバランスを育むのが勝負勘なのだ。そして、その勝負勘というのは、生まれつきのものではなく、この世に生まれ落ちた後、環境世界との関わりのなかで、磨き抜いていくものではないかと思う。

 写真にしても、私の目でいい写真を継続的に撮っていると思う人は、この勝負勘が優れていて、一緒に仕事をするうえでも、相手と保つべき距離をわかっている。だから、気持ちよく仕事をできる。

 そうでない人は、仕事という厳粛な場で成り立っている人間関係であることを忘れて、”もたれ合い”とか”馴れ合い”を平気で持ち込む。そうなってしまうと、相思相愛の感情は薄れてしまう。

 それがいいとか悪いとかではなく、そうしたスタンスで共同作業を行っていても、結果として、モノゴトは成就しないだろうと感じるのだ。

 組む相手や環境との相思相愛の上に、モノゴトは成就する。いくら自分の都合やセールスポイントを一生懸命に主張しても、相手の側から見た時、それがみっともないものにしか感じられない場合は、相思相愛は成立しない。誇れるような経歴でなくても、心惹かれる出会いというのはあって、相手の心が惹かれるアプローチでないと、相思相愛になれない。

 モノゴトの新しい始まりは、どんなに小さなことでも、相思相愛の上にあるものだと思う。