言論の自由とは!?

 今朝の朝日新聞の社説に「節度と寛容の心を持て」というご立派なタイトルで、イスラム教の預言者ムハンマドの諷刺漫画をめぐる欧州諸国とイスラム社会の対立について、下記のような記事が出ていた。

「 ・・・表現の自由を暴力で抑え込む動きを容認するわけにはいかない。穏当な抗議運動はともかく、放火や襲撃は論外だ。

 だが、一方で、イスラム社会の現状にも目を向けないではいられない。

 自由にものを言えるイスラムの国は、一握りしかない。経済的にも欧米に後れを取り、屈折した思いを抱く人々が多い。そこに表現の自由を振りかざして「預言者」の戯画を突きつければ、どんなことが起こるか。

 積もり積もった不満のはけ口として、煽動者に利用されることは目に見えている。

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 表現の自由はかけがえのないものだ。だが、人が心のよりどころとする宗教などへの配慮は欠かせない。自由をしっかりと守るためにも節度を保ちたい。」と。

 このような文章は、普通に読まれると、良識的なインテリのごく常識的な発言のようにとられてしまうが、実のところ、ものすごく偏見に満ちたものだと私は思う。書いた人はその偏見に無自覚で、一般受けしやすい正義を装っている。

 「放火や襲撃は論外だ!!」と主張し、「言論の自由を守るために、屈折した思いを抱く人への配慮と寛容は大事にしましょう」と、新聞を読む人の優越心をくすぐりながら、放火など目に見えてわかりやすい罪を声高に責める姿勢。

 ここには、「言論の自由」という言葉にカムフラージュされた「言論の暴力」に対する認識はまるで感じられない。

 ムハンマドの風刺漫画もまた、異なる宗教に対する”暴力”なのだけど、そういう自覚はなく、経済的に後れを取り、屈折した思いを抱く人の不満のはけ口に利用されたものにすぎないと、この社説担当者は考えている。同時に、イスラム社会の人々は経済的に屈折感を抱いているだけでなく、その多くは自由にものを言えない人々であると言いきってしまっているのだが、そこまで見識の浅い自分を平然とさらけ出してしまえる鈍感さに唖然とする。書いた個人だけでなく、こういう表現をチェックできる人が一人もいない朝日新聞の視野の狭さ。

 イスラム諸国は、北アフリカから中近東、イラン、パキスタンを経て、インドネシアまで広がる大文化圏なのだけど、そこに生きる人々は、フセイン政権下のイラクのような独裁者による専横国家なのですよ、というニュアンスを、朝日新聞は不用意に伝えているのだ。

 そうした感性の延長に、アメリカのアフガンやイラク侵攻、そしてイランやシリアに対する威嚇があることを、まるでわかっていない。 

 戦争はある日突然、政府の主導によって起こるのではない。

 このようなマスメディアの鈍感な伝達行為によって、人々の無意識のなかに拭いがたい偏見が少しずつ浸透させられ、そこから形成される世論の後押しがあって始めて、大きな奔流になるのではないか。

 そして、大きな奔流になってはじめて、人々はそのことに気付く。でも、大きな奔流になってしまったら、後戻りすることは、とても難しい。

 現在、私は、「風の旅人」のVol.20をBEHIND NOWというテーマで準備をしており、太平洋戦争の前の写真をチェックしている。

 満州事変の後、1937年に日中戦争がはじまり、1939年に第二次世界大戦が始まるが、その頃の日本は実にハイカラで、暗さは微塵も感じられない。現在とまるで変わらない光景がそこにあることに驚かされる。

 テレビなどで昭和を振り返る映像を見る時、あの戦争は、いかにも戦争が起こりますよという重々しい雰囲気のなかで始められたように私たちは錯覚させられているが、そうではない。

 写真に写し出されているのは、垢抜けた人々が、平和を謳歌している光景だ。そして、書店で漫画を立ち読みしている子供たちの足元で、「支那、遂に墓穴掘る」とか、「戦争は儲かるか」などの新聞の大きな見出しが、人々に偏見を囁きかけている。

 中国で着々と戦争の準備が進められているその時、人々は人生を楽しみ、その時から僅か1,2年でアメリカを相手に戦争を始めるなどと、想像できないような雰囲気だ。

 誰にも簡単にわかるような形で、モノゴトは進んでいない。

 今朝の朝日新聞のように、わかりやすい暴力だけ批判し、目に見えにくい暴力には無自覚で、自ら、その一翼を担っているということにも気付いていないことの方が恐いのだ。

 なぜなら、見に見えにくいために多くの人が無警戒にそのことを受け入れてしまい、その無意識の数が波となって、大きな勢力になってしまうことがあるからだ。

 言論を支配する人たちは、「言論の自由」を主張する。言論によって相手を貶めることもまた自由なのだが、未発達で屈折した人間を相手にすると暴力で反発してくることもあるから、節度を守って、相手を寛容に見守ってあげよう、ということを、彼らは厚顔無恥に主張する。

 「言論の自由」などと言うと、何かしら普遍的で高尚なことのように勘違いするから、この言い方は、やめた方がいいと私は思う。しかも、それを匿名で大新聞の紙上で書くと、「言論の自由」という言葉が一人歩きをして、権力になってしまう。

  だから、「言論の自由」ではなく、「私個人の価値観や美意識や認識を自分の言葉で述べる自由」とした方がいいのではないか。

 特定の他者を貶める表現も、「言論の自由だからそうしているのだ!!」とムキになる必要はなく、「私個人の価値観や美意識や認識を、そのような形で晒させていただきます」という程度のことでいいのだ。

 そして、それを見る人は、表現物を通して、表現者の価値観や美意識や認識のレベルを推し量る。みっともない表現がされている場合は、その程度の人なんだとわかればそれでいいのだ。

 「表現の自由だ!」などという正義の論法は、みっともない表現に触れる者を判断停止状態に追いやり、みっともないかどうか考えてはいけないような気分にさせる一種のカムフラージュにすぎないと私は思う。