第937回 情報と人間の関係が変わる時

 Google play musicとかアマゾンのプライムビデオで、音楽や映画などは定額で色々楽しむことができて、そして、さすがに今のところは書籍の定額読み放題はないけれど、アマゾンのオーディブルで、書物の朗読ならば月1500円で聞き放題というサービスがある。
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 すなわち、誰でも毎月3000円ほど支出すれば、映画、音楽、本が好きなだけ楽しめてしまう。
 私の青春時代なら、3000円というのは、LPレコードを一枚買うのが精一杯の金額だ。
 近年の表現分野におけるこの変化は、いったい何を意味しているのだろう。数年前、インターネットで音楽をダウンロードできるようになった時に、表現者著作権云々が議論されたが、そうした議論に拘泥している人々を取り残して、現実の変化は、もうずっと先を行ってしまった。
 表現分野におけるこの大転換は、中世において聖書が印刷され、それまで情報のイニシアチブを握っていた教会の権威が失墜し、宗教の時代から個人主義の時代へと転換した状況に似ているのではないだろうか。
 聞き放題とか見放題という仕組みが当たり前になると、もはや一握りの力あるものが情報の方向付けをすることができなくなる。一握りの力あるものというのは政治的権力者に限らない。たとえば、新聞、テレビ、出版社など、情報の発信者と、評論家などのその取り巻きは、これまでは情報の方向付けをする権限をもっていた。表現を志す者達は、自分の表現を世の中に出すために、その権限ある者達に認められ、評価されなければならなかった。つまり、常に、テストされたわけだ。だから、その評価の基準を、気にせざるを得なかった。
 しかし、既に当たり前になりつつある情報受発信の新しい構造は、過去に制作されてきた膨大なコンテンツをストックするだけでなく、新たに、表現者達が、自由に自分の表現をアップすることができてしまう。そして、それを見たり聞いたりする人達は、宣伝広告や評論家の評価を基準にコンテンツを選ぶのではなく、自分自身のライフスタイルや好みにあったものが、ビッグデータの解析によってサービス提供者から色々と推奨されるようになっている。
 もはやそれが良いとか悪いとか議論しても時代は後戻りできない。そういうシステムを大勢が支持しているのだ。だから、考えるべきは、この変化が、私達にいったい何をもたらすかだ。間違いなく、私たちの視点や意識は変わるだろう。そして人生観や職業観、世界観も変わるだろう。
 それに伴って、表現というものも変わるだろう。もちろん、変わらない表現者もいる。しかし、世の中に受けるためにどうすればいいか、という発想から表現を行っている多くの者は、空虚を噛みしめるしかなくなるだろう。
 何でもそうだが、選択が自由になってしまうと、自分が本当に欲するものが何なのか、逆に真剣に考えてしまう。そして、実はそんなに多くないことがわかる。制約があった時には、知人の評価や世間の評判などを聞いて、自分も遅れをとらないように焦って、いろいろなものに手を出してしまうことがあったが、そういうことはなくなるような気がする。
 こうしたことは、進学や進路においても同じだ。
 少子化によって誰でも大学に入れるようになってしまうと、高額なお金を費やして大学に行く意味を真剣に考えざるを得なくなる。入学することは簡単で卒業することが難しいゆえに、大学で一生懸命に勉強する欧米の大学生に比べて、日本の大学生は、入試に膨大なエネルギーを注ぐが、入学後はあまり勉強しない傾向が強かったが、そういうことはなくなるかもしれない。
 就職についても終身雇用は崩れつつあり、競争に勝って大会社に入社さえできれば定年まで安定ということはなくなるし、それは逆に、23歳くらいまでに試験で失敗を重ねた人間が、後に大きく挽回する可能性も大きくなったということだ。
 聖書が印刷されて普及を始めた時、そのことが後にどういう変化をもたらすか想像はできなかった。しかし、はっきりとしていることは、情報の受け渡しの仕方の大きな変化は、意識変化と社会変化につながるという事実だ。人間は情報の付き合い方によって、新たな人間として作られる。
 500年前の印刷技術の発展と聖書の翻訳は、神の前でみな同じという普遍的感覚から、”他とは違う自己”という意識を目覚めさせた。
 そして現在、ありとあらゆる情報表現に無制限にアクセスできる状況は、”他とは違う自己”を、どういう意識に導くのだろう。
 私は、人々が自由に接することができる膨大なコンテンツは、一見多様に見えて、けっきょくは、”同じ”という普遍的な感覚へと人々を導くのではないかという気がする。
 本当に知りたいこと、本当に大切にしたいものは、そんなに多くはないからで、一生かけても絶対に全てにアクセスすることができないことが明らかなコンテンツの山の前で、人間はそのことに気づくと思う。
 本当に知りたいこと、本当に大切にしたいものに至るために、一人ひとりが、じっくりと自分に向き合わざるを得ない時代の到来。表現物もまた、そのことに十分に応えられるものかどうかが問われるのだろうと思う。