そのものの存在感とは!?

 今から80年程前、ペルーで乾板写真を撮っていたMARTIN CHAMBIという人の写真を見る。

 ペルーの先住民族が、自分と同じ先住民の生活、ポートレート、インカの遺跡などを撮影しているもので、同じ頃にヨーロッパ人が撮ったものとは全く異なっている。

 ヨーロッパ人が撮ったものは、現地の人々を「物」として写真フレームの中に配置しているという印象で、MARTIN CHAMBIの写真の人物たちは、生きた存在としての迫力が、それらとはまるで違う。 

 写真というのは、シャッターを切るだけなのに、なぜここまで写るものの存在感が異なってしまうのか、不思議でならない。

 それ以前の問題として、そもそも「存在感」というのはいったい何なのか。

 MARTIN CHANBIの撮影した先住民は、ボロボロの服を着ている。当時、彼らは、激しい差別と弾圧のなかにあったのだが、写真に写っている彼らからは、悲惨さや、痛々しさや、不安や不満すらも感じられない。

 彼らは、風雪に耐えてきた老樹のように、寡黙に、厳かに、神々しく、立っている。

 人は、時と場所を選んで生まれることはできない。痩せこけた大地に着生する種のように、生存のために条件が良いとは言えない時と場所に生まれ落ちることもあるだろう。

 条件が良いか悪いかなどと分別くさく考えてしまうのは、中途半端に余裕があるからかもしれない。ぎりぎりの条件のなかで生きているものは、自分が持てるもの全てを自分のなかから引き出して、全力で事に当たらねばならない。どこかから借りてきた”標準的スタンス”でその場を適当にごまかすことなどできやしない。自分の表面がデコボコとなったり、軋むように歪んで、他人と異なる様相になろうとも、そうなることが自分にとって必然であれば、そうなる他しかたがない。

 その結果として、そのものの強い”個性”が生じる。現代社会における、標準的・規格的な約束事の枠のなかのファッションとか髪型とか趣味の違いといった表面的な差異ではなく、もっと全存在的なもの、その人の考え方や感じ方や行動特性であるとか人との関係の仕方、さらには、目にするもの全てとの感応のあり方など、総体として、そうならざるを得ないからそうなったと言えるほどの、その人らしさが、生じる。その”個性”は、他人から見れば歪に見えることもあり、その歪さを強調して面白可笑しく、見下すように、テレビの余興のように嘲られたり、仲間はずれにされることもある。

 また、それを見る側の、善と悪、発展と進歩、快適と悲惨などの価値観を主張するために、そのステレオタイプの価値判断のなかに対象を当てはめて、その価値判断を強調する素材として対象を扱うということもある。とりわけ昨今の報道写真には、そういうものが多い。

 テレビの娯楽番組と報道は、一方は不真面目で他方は真面目など、相反するものとして考えられがちであるが、私は、そうは思わない。対象を自分の都合の良いように扱っているということにおいて、同じなのだ。

 言いかえるならば、今の自分が所有する価値観の枠のなかで善悪、損得、美醜などを、いとも簡単に性急に決めてしまって、それ以外の有り様について思考停止になってしまっているということで(それが自分の都合の良いようにという意味なのだが)、同じなのだ。

 誰でも、自分のなかに一定の価値基準がある。自分が想定していることがある。実際に動かなくても、想像できるものがある。それらは、自分がこれまで生きてきて、意識的であれ無意識的であれ、いろいろな物を見たり、教えられたり、体験したりして、少しずつ自分のなかに織り込んできたものたちによって整えられている。そして、誰しも、それを基準にして考えたり、行動したりしている。それを超えて、考えたり、行動することは、とても難しい。

 しかし、当たり前のことであるが、これまで自分が自分のなかに織り込んできたものが、世界の全てである筈がない。未来の全てを保証してくれるものである筈がない。そして、未来の全てを保証してくれるような考え方や価値観がある筈もない。

 けっきょくのところ、その時、その場所で、自分自身が確かめたり発見したりしながら、自分のなかに新たなる層を織り込んでいきながら生きていかなければならないのだが、上に述べたような思考停止に誘導するような”表現”は、その根本的な力を殺ぐことになりはしないだろうか。

 自分で手探りしながら、たとえ歪な形になっても、なるようになっていくのではなく、正しさ、素晴らしさ、美しさ、喜び、幸福など人生における判断基準を、「こうすべきだ」、「このようにしたら簡単にそれが手に入る」などと人に決めてもらい、安易にアドバイスしてもらい、その落とし穴に気付くこともなく、疑うこともなく、あらかじめ建築材用途として切られることが前提の、ただ真っ直ぐに伸びるだけの癖のない植樹林のように生きさせられてしまうのではないか。

 自分に都合が良いものを周りに集めているつもりでも、実際には、自分自身が、何ものかにとって非常に都合の良い存在に成り下がっていくだけなのかもしれない。

 80年前にMARTIN CHABIの撮ったペルー先住民は、私たちが染め上げられている今日的な価値観とはまったく無縁のところに、立っている。古いとか新しいといった表層的な分別を無化して、存在することの厳粛さだけを伝えてくる。

 この写真の発表権を持っている人は、日本で展覧会を行いたくて日本の美術館やギャラリーにプレゼンしたところ、「まずスポンサーを見つけてきなさい」と軽くいなされたらしい。そして、大手写真メーカーに交渉に行ったところ、「これらの写真を発表することで、私たちに何のメリットがありますか?」と断られてしまったらしい。

 それで、ペルーに縁の深い写真家の関野吉晴さん、高野潤さん、そして水越武さんに相談して、これらの写真をきっちり紹介できる媒体や場は今の日本で他に見当たらないということになり、私の所にやってきたらしい。

 企業は、利益集団だから自分たちにメリットがなければ動かない。メリットがあるかどうかわからないけれど社会的貢献のためにそれをすべきだなどと綺麗事を言うつもりは、私にはない。私だって、一企業に対して責任のある者だから、社会はそんなに甘いものではないということは、よくわかっている。

 それでも問題だと思うのは、彼らが口にする”メリット”というのが、あまりにも目先で、表面的なことだということだ。国際企業といいながらも、実際はとても自分本位の狭い領域のことしか見えておらず、そのなかで目先の収支決算ばかり気にしている。といって、「将来への投資をすべきだ」などという抽象的な言い方で反論するのも、あまりにもステレオタイプだ。彼らには彼らなりの論法で、将来への投資を行っているのだから。

 私は、将来の投資とか、文化財を守る社会的貢献などという今日的な価値観の枠組みのなかで、MARTIN CHAMBIの写真と向き合うつもりはない。

 知らず知らず私たちが盲目的に信じこんでいる今日的な価値観や、物の見方や感じ方は、もしかしたら過渡的なものかもしれないと冷静に受け止めるためだけでも、これらの写真を多くの人に見てもらいたいと思っている。

 想定できることを広げておかなければ、自分の潜在力も増さない。狭い想定のなかだけで生きていると、それを超えることが自分に関わってきた時、パニックになってしまうかもしれない。今日の情報化社会では、いろいろな世界を見聞きすることができるが、同じフィルター(たとえばテレビ的な)だけを通して見ていると、いろいろなものを見ているつもりで、実際は、一面的な世界を見ているにすぎないだろう。

 自分の価値観がぐらぐらと揺らぐほどの視点がこの世にあるということを心の片隅にでも置いて備えておけば、世界が、自分が想定する以上に多面的で、様々なものが力強く存在する場であることが、当たり前のことのように感じられるかもしれない。

 そして、世界を構成する様々な人や物の存在が強い存在感をもって感じられるようになってこそ、この世界に自分自身が存在するという実感も得られるのではないかと思う。


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