働くことに対する敬意

 自分の周辺を見まわしても、働くことに対する敬意が薄いなあと感じることがある。働くことそのものに対する敬意が、何ゆえにこんなに希薄になっているのだろうと思う。

 例えば、夕飯を食べに近くの寿司屋のチェーン店に行くと、寿司を握る人の顔から、こんな仕事なんかやってられないなあという気持ちが滲み出ている。そういう顔で、とりあえずネタを持ってご飯に乗せて出すのだが、そんな寿司が美味い筈がない。

 仕事というものが、拘束時間に対して報酬を受けること、という性質のものになっていることが多い。そして、人生の意義は、仕事そのものにあるのではなく、拘束時間として捨てた時間の見返りに得た報酬で、どれだけ楽しく過ごせるかということになってしまっている。ゆえに、仕事にかける時間が少ないほど、優雅な人生らしいのだ。

 だから家庭においても、父親が仕事に精を出して頑張っているということは、ほとんど省みられず、持ち帰る給与がどれだけかということや、仕事への拘束時間が長くて家族と過ごす時間が少ないことばかりが取り上げられ、批判されたりする。

 母親に、働くことに対する敬意がないものだから、家事をするにしても、上に述べた寿司屋のように、「やってられないなあ」という不満顔で行う。

 働くことの大変さをよくわかっていないインテリが、父親が仕事をしすぎて家族と過ごす時間が少ないから子供がおかしくなるなどと言ったりするが、本当にそうだろうか。

 彼らは、わざわざデータをとって、それを実証しようとするが、あらかじめ自分のなかに答えを作ってしまっているから、その答えに添ったデーターが集められる。データというものは、ほとんどの場合そういうものだ。

 ならば、父が不在がちな昔の侍の子供達は、みんなおかしくなっていたのか。遠洋漁業や出稼ぎの人はどうなるのか。そういう言い方をすると、昔は共同体が生きていて母親の負担が少なかったけれど、今は違うという話しになる。負担ということに関しては、少子化と電化製品の普及で昔より今が楽なことは間違いないし、子育てを相談する相手だって、周りに全然いないわけではない。

 子供に影響があるのは、父親と過ごす時間が少ないからではなく、父親がいない時に、母親が父親のことを子供たちにどう伝えているかではないか。また、母親の家事への取り組み方も、影響があるのではないか。子供に期待するばかりで、子供の習い事は一生懸命だけど、子供のことで大変だとぼやくばかりで、ろくに家事をしない人が増えているとも聞く。

 「お父さんみたいになっちゃあダメよ」とか、「お父さんみたいに安月給にならないために、しっかり勉強しなければダメよ」という感じで母親が子供に接していたら、その子供は、将来自分も陰でそのように言われる可能性を感じるわけだし、父親をバカにしながら家でダラダラと過ごしている母親と、そんな母親にバカにされる父親を、ともに醜い存在だと思うようになるだろう。結果として大人になることの醜さを感じることになるのではないか。

 父親が働いていることそのものに対する敬意を母親が抱き、それを子供にきちんと伝えていれば、父親が不在がちでも、子供はそんなにおかしくならないのではないか。

 出稼ぎの父親とたまにしか会えない子供たちは、父親が自分たちのために出稼ぎに行かざるを得ないことを知っているからこそ、父親を愛しているのだろう。

 働いている父親に対して、「ご苦労様」と思い、出かける時は「行ってらっしゃい」、帰ってきた時は「おかえりなさい」と、義務ではなく心から言えるような家庭でなくなってしまっていることが、現代の家庭の歪みなのではないだろうか。

 働くことは、人間に限らず全ての生物の基本的な営みだ。

 それは、生きるための基本的な姿勢と言っていいと思う。

 その姿勢が整えられてこそ、社会感覚も整えられる。姿勢が悪いと社会感覚も悪くなる。

 働くことは、単なるお金儲けではなく、自らを資本として、この世界を生き抜くために懸命に力を尽くし、その努力によって自らの質を高め、信頼に値する存在になっていくこと。報酬は、「拘束時間」への対価ではなく、その仕事の質や魅力や信頼度に応じて得られるものだろう。そうでない現実があるが、だからといって、その基本を放棄してしまうことで、状況が好転するわけではない。

 働く人間は、自らの質が高まって魅力的になり、人に信頼され、選ばれるに値する存在になっていく感覚があれば、たとえ困難があっても頑張ろうという気持ちになる。その気持ちが、現実の壁を超える力になる。

 その逆に、自らの質が低下して魅力が乏しくなり、人に選ばれなくなると、ますます無気力になって質が低下し、現実がそうだからと諦め、結果として現実を超えることができない悪循環に陥ってしまう。

 今日の社会は、価値観の多様化によって、会社も人生も様々な要素のなかから好きなものを自由に選択することができると思われている。種類だけではなく、取り組み姿勢までも自分で自由に決められると思ってしまうことが、現代人の大きな錯誤かもしれない。

 取り組み姿勢が崩れると、周りに気がまわらなくなり、感覚が鈍くなる。感覚が鈍くなると自分が置かれている状況が読めなくなる。企業や役所の不祥事をはじめ、あまりにも思慮に欠けた人間のふるまいは、取り組み姿勢の崩れが感覚麻痺を引き起こすゆえのことかもしれない。

 生物の種類は多様であることは間違いないが、それらの生きる姿勢は、おおむね一つだ。小さな昆虫でさえ、生きる姿勢に狎れ合いや妥協は感じられない。全ての生物は、この世界を生き抜くために懸命に力を尽くして足掻きながら、周りとのバランスをとり、環境に適合する方法を編み出し、同時に、自分以外の生命を自分ならではの方法で支えている。

 どんなに仕事が忙しくて大変でも、自分の力で生きながら、周りと信頼関係を築き、そのうえで人に役立てることを実感すれば、充足感がある。

 そうした姿勢は、一人の人間に限らず、企業も含め、全ての生命活動の意義とつながっているからこそ、満たされるものがあるのだと思う。

 豊かになった社会では、働かなくても誰かに依存すれば生きていけるから、働かない人が増える。気に入った仕事が無い、自分に合った仕事が無い、自分に自信がない、条件の良い仕事が無い、採用そのものが無いからと、いろいろな理由も付けることができる。

 また、いくら一生懸命に働いても母親に敬意を払われていない父親を見ていると、働こうとうする意欲もあまり生じないのかもしれない。インテリの論理を聞きかじって、働けない原因を時代や社会のせいにすればよかったり、働くことにさほど価値を見出せなくなったり、働くこそそのものがバカらしくなるのかもしれない。

 それでも人間は、生物の本能として、働いて他の役に立ちたいという気持ちを持っているのだと思う。その気持ちを自然に発揮できない様々な原因を、インテリが主導して作ってきた。労働=金儲け主義、技術革新=労働からの解放、働き過ぎ=家族を大切にしない、などと。

 家族への愛情は、傍にいて共に時間を過ごすことだけではない筈だ。社会のなかで自らの仕事で報酬を得るための様々な苦闘を背負い、その報酬によって家族を養うことは、最大の愛情だと思う。それに対して、口先であれこれ批判するインテリや主婦がいるのなら、口であれこれ言う前に、企業社会などにおいて自分の力で報酬を得ることの大変さを身をもって知ればいいと思う。そして、働いて家族を養うという行為のなかに宿る深い愛情を理解できないかぎり、働いている人や、働くことそのものに対する敬意も育まれないだろう。それは、生物としての基本的姿勢を崩すことであり、その姿勢の崩れが、基本的な感覚も狂わせるのだと思う。


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