自然と人間のあいだ

 2005年のVOL12(2月号)から、5回か6回シリーズで、「自然と人間のあいだ」というテーマで特集を組もうと思う。
 “あいだ”というのは、関係という意味でもあり、距離という意味でもある。
 それぞれの号で「混沌の美、秩序の美」などサブテーマを決めて、人間にも自然にもあるものと、どちらか一方しかないものを、掘り下げていきたい。そして、おそらくそれは、人間特有(と人間だけが思っているかもしれない)の「意識」がいったい何ものであるのか、探っていく心の旅になっていくのではないかと思う。

 一昨日、目黒の自然教育園 を散策した。この公園の木々は、ほとんど手入れをせずに保存しているので、樹齢何百年の松とか、コナラとかシイの大木が鬱蒼と生い茂っている。かつての武蔵野の森の姿をそのまま残しているのだという。
 時々、この公園を歩くのだが、今までは中央から西側の道を歩くだけだった。今回はじめて、園内の東側の端っこの方まで歩いた。すると驚いたことに、シュロの樹がいっぱい生えていて、まるで亜熱帯の森のようだった。最近、温暖化する東京で、庭にシュロを育てる人が多く、その実をヒヨドリツグミが食べて、糞とともに種子をこの森に落とすからだという。
 また、この東側一帯には、異常にカラスが多く、不気味な気配がたちこめている。
 東京というところは、その内側に、樹齢何百年の松や桜の大木などともに、シュロの群生とカラスの大群も抱え込んでいる摩訶不思議な巨大都市なのだ。
 
 東京の、たとえば白金とか麻布とか広尾あたりを歩いていると、名前から受ける洗練された印象と違い、狭い道がくねくねと曲がり、家中が植物で覆われた家や、狭い庭にガラクタやゴミを積みあげた家や、雑草が子どもの背丈より伸びた庭などが目に付く。
 いったいどういう人がここに住んでいるのだ?と思いながら歩いていると、けっこうそういうヘンな光景が至るところにあるのだ。勝手気ままという感じで、それが妙に落ち着きを与える。
 きっちり区画整理された住宅地は、見た目には綺麗なのだが、息苦しいものを感じる。
その綺麗さは、人から管理され、監視されることによってできあがっているからだろう。異物を排除するような雰囲気というのは、自分も異物であってはならないという強迫観念を植え付ける。隣近所に対して、きっちり挨拶ができなければならない、迷惑をかけてはいけない、汚してはいけない、場の空気を乱してはいけないなどと、その純粋培養されたような空間は、人に閉塞感を与える。そうしたところに、ヘンなものが入ってくると、人々はにわかに警戒心を見せる。
 ヘンなモノが、かってきままに、そのあたりにたくさん散在していながら、なるべくしてなるのだという断固とした気配を漂わせている空間は、気分を楽にする。自分が多少ヘンでも構わないと思える安心感を与える。
 昔は、どこの共同体にも少し狂った人がいた。そうした人たちの存在は、その共同体の人たちを必要以上に潔癖性にしない役割を果たしていたのではないかと思うことがある。
 少しのヘンさも許されないような雰囲気のなかで、自分と自分の家族にそれを強いていくと、きっとどこかに歪みが生じてくる。
 子どもに対しても、目が届きすぎたり、目が届かないことにナーバスになって、家のなかにそういう緊張感を作り出してしまうのではなく、適度に目が届かないくらいの勝手気ままさがあって、それがちょうどよいのではないかと思える余裕が、家のなかに漂っている方がいい。街づくりに関しても、パリなどと比較して、日本の街は計画性がないなどと批判する知識人(ヨーロッパかぶれ)も多いが、行き当たりばったりの野放図なダイナミックさが必要な時代もある。それが結果として、なるべくしてなるようになっていくのが、自然本来のメカニズムなのだ。
 自然教育園に急激に増えるシュロの樹も、武蔵野の森が備えるダイナミズムのなかで、長い時間が経つと、なるべくしてなるように淘汰される運命にあるという。