江成常夫さんの写真を前にして

 写真家の江成常夫さんと会って話しをしたり、手紙の交換をしたりするたび、江成さんの作品を『風の旅人』でどう組めばいいのか、悩む。
 江成常夫さんは、私が言うまでもなく、日本を代表する硬派の写真家だ。彼は、60年前のあの戦争と、”戦後”を、一生賭けて追い続けている。
 その江成さんの仕事を『風の旅人』で紹介したいのだが、安易な反戦スローガンではないし、フレームに入れて飾る<アート作品>でもないし、わかりやすいドキュメントでもないし、真意を伝える為にどのように誌面を作ればいいのか、考えあぐねている。

 江成さんは、日本人が失ってしまったアイデンティティの問題について、真剣に考え続けている。普通の人が雑巾を絞りきったと思うところから、さらに雑巾を絞ろうとしている。
 現在の歴史教育というのは、過去の事実を知るお勉強に成り下がってしまい、たとえその事実の背景を説明することがあったとしても、雑巾を少し絞った程度の認識を伝えるだけで、それで事足りるかのような開き直った態度をとっている。右の立場であれ、左の立場であれ。
 それは、歴史に限らず、現在のマスコミの報道にしても、ジャーナリズムにしても、有識者や専門家と言われる人々の解説にしても、声高に反戦を唱える人であっても、同じようなところがある。
 真偽とか正誤以上に、物事の陰影とか目に見えにくい大事な何かがある筈だが、表層の事実を並べ立てたり、感傷に訴えるような表現は、そうしたことを殺ぎ落としてしまう。雑巾をもう一絞りすれば、違う局面が出てくるかもしれないのに、その意識を捨てることは、ある意味で偏狭、固定観念の上に胡座をかくこと。異なる一滴が出てしまうことを恐れるあまり、頑なにそれを避ける態度とも言える。
 ジャーナリストにしても、ドキュメント作家にしても、もう何も絞れないように見えるところから、そうではないと確信して、雑巾をさらに絞ろうと努力する方こそ、本物だと思う。当然ながら、それはとても困難な仕事だ。肉体的にとか精神的にとか、そういうわかりやすい意味での困難ではなく、手が届きそうで簡単に届かないものを必死に手繰り寄せていこうとする”意志の力”という側面で、困難だと思う。
 日本人は、物ごとを水に流しやすい性質があるし、根を詰めて何かに向き合っていくことを生理的に拒否し、その場をうまく交わすことや、流れやムードを乱さないことが良いことだと教えられてきた。 だから、流れやムードに乗って活動することは、わりと簡単で得意だ。
 太平洋戦争を語る場合も、「戦争はいけない」というムードに添って、感傷的に論じることは誰でもできることだが、それは、お茶の間の話題(ワイドショー)と同じ程度のことで、根本的なことにつながっていかない。ある意味で、既得権のようになった”安易な幸せ”を肯定し安心させる麻薬になるのではないかと、私は懸念を持つ。
 江成さんも考えるように、今、重要なことは、戦争は善か悪かという分かり切った議論ではなく、アイデンティティの喪失であり、いわば”魂”の喪失の問題なのだ。”魂”の拠り所を失えば、口で戦争反対を叫んでも、心のどこかで世界の終焉を願うという事もあり得る。(といって、”魂”などと言うと、すぐに、国家神道みたいなことにつなげる人もいる)
 自殺の問題にしても、経済的理由とか簡単に論じられているが、アイデンティティとか魂の問題がきっと絡んでいる。どんなに困難な状況でも生きる意味を見いだせるかどうかという次元において。
 なぜ、日本人がアイデンティティの喪失に至ったかというと、適度に絞った雑巾を、「もう絞り終えたよ」と言って、無責任にバトンタッチしていくからではないだろうか。
 江成さんは、ある意味でしつこく、あの戦争と、「戦後」にこだわり続けている。まだ、あの戦争と「戦後」は終わっていないと思っているからだ。
 それは、安保の問題とか、そういう表面上のことではなく、日本人の意識の後遺症、および、無意識の集合体が作り上げる世界の問題として、まだ終わっていないということだ。
 日本人のアイデンティティの喪失の原因の一つは、あの戦争の後遺症として、ものごとの本質に宿る”魂”を疎かにしてきたこと。また、無意識の集合体としては、昔から、その場の感傷に流されやすい体質があったわけで、その感傷主義的な体質が、かつての強固な皇国史観を支える力にもなっていた。そして現在もまた、別種の感傷主義的な行動がなくなっているわけではない。
 過去のことではなく、今私たちが生きていくためのアイデンティティの問題として、物事の本質に宿る”魂”と真剣に向き合っていく必要がある。そうでなければ、悪しき感傷主義を助長するだけで、ますます本質を見えにくくしてしまう。江成さんの「戦争と戦後」をテーマにした作品は、静かに、そのことを語り続けている。