第1310回 大江健三郎氏に対する複雑で捻れた心情

 大江健三郎氏が亡くなった。

 ノーベル文学賞作家の死なので、各界から、品のいい賞賛や哀悼のメッセージが色々と発せられるだろうが、私の人生のなかで、この人の存在は捻れていて、とても複雑である。

 私は、20歳までは彼の熱心な読者だった。『飼育』とか『個人的な体験』、『遅れてきた青年』、「万延元年のフットボール』、そして『同時代ゲーム』まで、新潮社が出している文庫本や、箱入りの立派な単行本まで全てを読んだ。決して好きな作家ではなかったが、何か自分の中で義務感のようなものがあって全てを読んだ。

 今思えば、当時の読書量は不可思議で、大江氏だけでなく、安部公房開高健やドフトエフスキーや石川淳など、気になった作家は、一冊とか二冊ではなく、発行済みのものを全て読んでいたが、いつ、どれほどの時間をかけて読んでいたのだ、なんでそんなに早く読めたのか、今の自分ではとても無理だ。

 大江氏の小説において、もう内容はすっかり忘れたが、『遅れてきた青年』のような感覚を20歳以前の自分は引きずっていた。

 私が大学に入ったのは1980年で、70年代の激しい大学紛争の時と空気はすっかり変わっていて、『なんとなくクリスタル』というブランド嗜好からバブル時代の到来を予感させる本が大人気で、学園内も、そういう浮かれた雰囲気に支配されていた。

 70代から80年代になった途端、大学生の関心も劇的に変わってしまい、もはや自分たちの手で時代を動かすことなんかできないという政治的無気力の時代であり、一体何のために生きてきたかと自問自答する私は、自分が「遅れてきた青年」だと思いながら、大江氏の小説を、好きでもないのに読みふけっていたが、けっきょく大学の雰囲気に馴染めず、大学を辞めて海外を放浪することになった。

 そして2年間の放浪から帰国した1982年の春、『反核・平和のための東京行動」があり、あっけにとられた。盛り上がりはすごいが、非常に単純化された平和イデオロギーが広がり、大江健三郎氏が、反戦反核反天皇制憲法9条死守という政治信条の思想的中核のような存在になっていた。

 私は、しだいにバブル化していく時代の刹那的なイベント行為のように感じられた反戦集会の雰囲気に違和感を覚え、また大江氏が書くものも、メッセージが単純で、以前ほど自分の心に引っかかるところがなくなり、まったく読まなくなってしまった。

 大江氏の作品を、自分に課すように読んでいたのは「同時代性」を自分に引き寄せようとしたからだと思うが、放浪から帰国した自分は、「あれは同時代ではなく、同世代性にすぎないのではないか」と感じるようになった。私は、大江氏と同世代ではなく、多感な時代に太平洋戦争を経験しながらも、戦後、急速にアメリカ化が進む日本社会で、それに同化しながらも心で反発していた同世代の人たちの世界を大江氏が代表していて、だとすると、20歳までの私は、そうした大江氏たち同世代に対しても遅れてきた青年、ということになるが、そうした欧米化に開き直って無感覚な追従者になった「なんとなくクリスタル」世代にも馴染めない宙ぶらりんな存在ということでもあった。

 そういう、どこにも魂の置き場のない私を救ってくれたのは、その二つの傾向とはまったく異なるポジションニングの作家であった日野啓三さんだが、そのことはともかく、その後、大江氏は、1994年に文化勲章の受賞を辞退したのだが、その時、「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観(天皇制のこと)を認めないからだ。」と声明を出した。しかし、彼は、2002年、フランスのレジオンドヌール勲章は受け取った。

 東大の仏文科卒なのでフランスが好きなのはわかるが、フランスは、大江氏が反対運動を繰り広げていた核兵器の実験を戦後行ってきた国であり、レジオンドヌール勲章は、「名誉軍団国家勲章」のことで、ナポレオンによって制定され、この勲章の受賞は、名誉ある騎士団への加入を意味する。大江氏は、コマンドールという3番目の高位の司令官に該当する勲章を受けたが、それ以上の高位では、伊藤博文中曽根康弘東京都知事鈴木俊一などの政治家や、トヨタ自動車豊田章一郎ら経済界の人が受賞している。あきらかに、大江氏が敵視していた”体制側”の人たちが対象だ。

 大江氏にとって、ナポレオンの戦争は、侵略戦争ではなく、正義の戦争なのだろうか?

 戦争反対を唱えながら、なぜ、名誉軍団の一員になることを欲するのか?

 彼の戦争反対は、ファシズムにつながる恐れのある天皇制批判とつながってはいるものの、民主主義を守るという大義名分を掲げた戦争は、問題ないということなのだろうか。

 しかし、この時代、反戦リーダーも一種の権威的存在になっており、勲章やノーベル賞で箔がつけば、権威の威光は、圧倒的なものになる。

 それでも、風の旅人を作り続けている時、一度だけ、大江氏にコンタクトを取ったことがあった。

 白川静さんや、セバスチャンサルガドなど、書き手も写真家も、アプローチすれば誰にも断られなかったという若気の至りの慢心があったからだと思うが、第6号で、野町和嘉さんが撮ったエチオピアの飢餓を伝える写真を彼に送り、それについて文章を書いていただけないかと依頼したのだった。

 というのは、大江氏の本の中で、彼が尊敬するサルトルの言葉を引用し、「餓えた子供の前で文学は必要か否か」といった問いがあったことを記憶していたからで、そうした内容の手紙を書いて、風の旅人のバックナンバーとともに送った。

 数日後のある朝、事務所のファックスが動き出して、大江氏の手書きのメッセージが送られてきた。

 執筆内容のことには一切触れず、「あなたが私の住所を知っていること、それじたいが、危険だ」という内容だった。

 危険云々というのは、まあ、口実なんだろう、執筆を断るための。大御所に対して一般の編集者では決してやらなかったであろう私の提案に、”挑戦的なもの”を感じ取ったからでもあるだろう。

 しかし、その口実に、こうした言葉をもってくることが、彼独特のセンスであり、彼の小説で描かれる主人公の臆病な性質の、少し滑稽な振る舞いの投影でもあると感じられた。

 このセンスを、「同時代的な知性」として一生懸命に吸収しようとした20歳までの私があった。

 大江氏の死に対して、色々な有識者が、彼を賛美するメッセージを発信するだろうが、私の中で大江健三郎氏というのは、10代の頃、違和感や反発も覚えながらも、「同時代」の精神の中に加わろうと熱心に本を読んだ存在であり、なんらかの形で私の精神形成にも影響を与えている。それがゆえに、私にとっては、どうにも複雑で捻れた対象である。

 しかし、この複雑で捻れた心情こそが、リアルな「同時代性」であり、大江氏の1980年頃までの小説世界だったような気がする。

 戦後の「同時代」は、決して、ともに戦った同志としての同時代ではないはずだ。

 もしも、大江氏の死において、ともに戦った同志であるかのようなメッセージを出している人がいるとすれば、それは、とんでもない独りよがりの錯覚であり、どんな戦いをしたのか知らないが、そんな戦いで、この時代は何にも変わっていない。

 

__________________________________________________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/