静かに注意深くあること

 世界で何が起こっているのかを知りたいならば、人はじっととどまって、世界に注意を向けなければならない。自分の周囲で何が起こっているかについて、静かに注意深くあること。自分の感覚を鈍くしてしまうような無駄なノイズはたてるべきではない。 (ラディカル・オーラル・ヒストリー 保苅実著)

 読んだり、調べたり、尋ねたり、探したりすることより、むしろ静かに注意深くあることで世界を知ることができる。世界に注意深くあるということは、世界でいま生じていることを知るためだけでなく、世界でかつて何が起こったのかについて知ったり回想したりすることも意味する。学術的歴史学者のように過去を調べたり、探索するのではなく、過去に注意を向ける。過去に注意深くあるすべを学びさえすれば、歴史のほうが私たちに近づいてくる。
 アボリジニの長老から保苅氏が学び記述していることは、アボリジニの世界観を分析して知るという次元のことではなく、今日の私たちの「知性」といわれる思考の癖の行き詰まり的状況に対して、新しい回路を示している。

 今日を生きる人間の、多くが感じていることは、考えるべき事がわからない、何をどう考えればいいかわからない、ということではないだろうか。
 考えなければならないという強迫観念のようなものがあるのだけれど、考えるべき基点が見いだせない。それは世の中が複雑で混沌としているからだというが、世の中は、いつの時代においても、複雑で混沌としている。文明化されていない所で生きていても、周りの自然は、わけがわからないものばかりだろう。つまり、複雑で混沌としているのは、周りの環境世界ではなく、自分の思考世界なのだ。それは思考の仕方というべきものではないだろうか。
 世界を知るために、調べたり、探したりするという手段が当たり前のこととしてインプットされていて、その手順を踏まなければならないと、教育とかしつけとか様々な今日的価値観によって、刷込まれている。そして、その手続きがわりと上手な人が、知的な人として表舞台に立つことが多くなり、自分が確保した優位性をさらに確固たるものにするため、よりいっそうの刷込を行う。
 実証主義者、学術的専門家、解説者、有事の時に必ず登場する武器評論家に至るまで、膨大な情報を積み上げた方が、世界の認識に近づいているのだと、評価される。でも、きっとそうではないのだろう。どんなに調査報告を聞かされても、世界の実態が伝えられているという気がまるでしない。
 今日の社会で、考えるべきことがわからないという人は、知的レベルが低いのではなく、そのような情報積み上げ式の思考の胡散臭さをどこかで感じていて、そういうものに対して、情熱を向ける気になれないのだ。ある意味で、自分と世界に対して正直なのだ。
 自分の感覚を鈍くしてしまうような無駄なノイズというのは、実は、「世界を知るためには、調べ、探らなければならない」という強迫観念を押しつけてくるものすべてである。

 そうした強迫観念から自由になって、静かに注意深くあること。今日の世界に対しても、過去に対しても、未来に対しても。情報を獲得するために躍起になるのではなく、世界からの情報をうけとるために、身体感覚を研ぎ澄まし、身体を世界に開いてゆくこと。
 世界で何が起こっているのかを知りたいならば、人はじっととどまって、世界に注意を向けなければならない。自分の周囲で何が起こっているかについて、静かに注意深くあること。自分の感覚を鈍くしてしまうような無駄なノイズはたてるべきではない。