新しい身体的思考の回路

 根コさん、テックさん、コメント有り難うございます。
 説明不足のことがありました。
 保苅実氏は、既にこの世にいません。今年の5月に、ガンで亡くなりました。享年33歳です。たった一冊の珠玉の研究成果を世に残して。
 生きていれば、ぜひとも「風の旅人」に連載していただきたい方ですし、「風の旅人」のなかを吹く”風”を敏感に感じていただけたのではないかと、かってに思っています。
 ですから、根コさんがコメントにある
アボリジニの長老から保苅氏が学び記述していることは、アボリジニの世界観を分析して知るという次元のことではなく、今日の私たちの「知性」といわれる思考の癖の行き詰まり的状況に対して、新しい回路を示している。」
「自分の感覚を鈍くしてしまうような無駄なノイズというのは、実は、『世界を知るためには、調べ、探らなければならない』という強迫観念を押しつけてくるものすべてなのだ。」
 は、保苅さんの研究成果から受けたインスピレーションをもとに、私が主観で書いたものです。彼は間違いなく、思考の新しい回路を示しています。それは、テックさんがコメントに書かれていることにも通じていて、身体感覚で思考するということなのではないかと思います。
 
 すなわち、テックさんが言う「なにが正しくなにが悪いのかが、わからなくなった場合、自分がなにを感じているのを精査していく」というのは、自分の身体感覚に注意深くなることだと思います。
 そして、「そうすると、いかに得た知識、周りの状況ばかりに気をとられ、自分自身がなにを感じているかをちっとも向き合っていなかったことに気が付きます。」というのは、身体が世界を感じ取っていないということに気づくということです。
 
 静かに注意深くあることは、世界と、その一部である自分自身に対して同時に注意深くあるということで、それは切り離せません。外に反応する内、内が働きかける外ですから。
 アボリジニは、そうしたことを普通に行っています。
 それを特殊なケースとして研究して、世の中にはそういうものもあるのですと発表して、人間の多様性は尊重しなければならないなどとご立派なことを言い、アボリジニ的な思考もこの世に存在する権利があるのだ等と、巧妙に自分事の範疇から排除しながら良識家を装う研究者は多くいます。
 しかし、保苅氏は、ある直観に基づき、真摯にそれを自分事とし、本質的な智慧を獲得しようとしているわけです。
 といって、原始に帰れとか、古代に帰れとか、自然に帰れということではありません。「風の旅人」流に言うなら、FIND THE ROOT 「根元をもう一度求めよ」ということです。(ROOTSではなくROOTです。)

 残念ながら、ここで書いたことは、次号もしくはその先の特集になるということではなく、私が「風の旅人」を制作している感覚が、そういうものではないかと自分で思っているのです。
 実は私は、ナショナルジオグラフィックのようなネイチャーサイエンスが嫌いです。特に文章が。醒めた事実報告のようなことをして、「人間が海の恵みを必要以上に奪っていると考える人もいる。」と客観的な態度を貫き、じゃああんたはどう思ってるんだ、と突っ込みを入れたくなると、「魚の乱獲、環境汚染など、人間が及ぼした影響は大きい」と決まり文句で締めくくるわけです。どれだけ本気でそう思っているんだと、いつも感じます。
 私は、保苅さん流に言うなら、異なる歴史時空どうしが「接続する」あるいは「共奏する」方法を模索しながら、「風の旅人」をつくりたいと思っています。
(歴史時空のなかに、当然ながら、人間時空や自然時空も含まれます)