紅葉の美

 今年の秋は、随分と雨が多い。
 天候不順のせいか、庭の木が落葉するのも、いつもより遅いような気がする。
 でもこの1週間ほどで、ぐっと加速した。
 自然教育園も、11月14日に訪れた時に比べ、11月23日に訪れた時は、ぐぐっと秋の気配が深まっていた。庭の盆栽の「ミニもみじ」も、やっと紅葉した。 
 暦のうえでは、秋というより、もう冬なんだけど。

 それにしても、人はなぜ紅葉を美しく思うのだろう。
 美しく思うというのは、きっと何かしらの必然性があるに違いない。たとえば、絵などにおいても、「美しく思うかそうでないか、それが全てだ。絵は理屈ではなく感性だ」と、自信満々に言う人がいる。そう言うのは簡単だが、そう言い放ったところで、何もはじまらない。
 といって、絵の様式とか技術的なことを解説して頭でわかったつもりになっても、「美」を感じる身体的経験との接点とはならない。
 絵も紅葉も、それを美しく思うのは、何かしらの必然性が自分のなかにあるに違いないと思う。
 これが、春の草花とか新緑だと、「生命の息吹」を感じ、生きていくうえで力を得るような感覚があるので、それを「美」と感じ積極的にそれを見たいと思うのは、道理があるような気がする。生き物として生きていくために、何かしらのエネルギーを獲得するという意味において。
 でも、紅葉の場合、そういうことでもないような気がする。
 紅葉を見に行くのは綺麗なものを見たいから。綺麗なものを見ると、気分が変わって生きるうえで良いのだからと、これまた自信満々に言う人がいる。その答えで満足してしまう人はそれでいいのだが、なぜ綺麗に感じるのかが気になるのだ。

 美しさを感じるというのは、対象そのものの都合によるものではなく、それを見る側の都合によるものだろう。対象は、花でも昆虫でも(絵でも)、生きる論理に従ってそうなっているにすぎないわけで、それを美しく思うのは、そう思う側に何かしらの必然性がある筈なのだ。
 そのことを日野啓三さんは、美しい言葉で言い当てていた。

「美は必ずしも客観的でない。美しさの奥行きをつくるのは、見るもの自身の魂の陰影である。」と。

 そうすれば、紅葉を美しく感じる私たち人間の都合(魂の陰影?)というのは一体何なのか。
 それは、もしかしたら、「痛み」に通じる感覚に近いのではないか。
 叩かれたり抓られたりする時に感じる「痛み」は、身体を守ろうとする身体の都合でそうなっている。「心の痛み」もまた、何かを守ろうとする身体的反応ではないかと思う。
 紅葉に対して感じる美しさというのは、自覚することがとても難しい、透きとおった痛みなのではないだろうか。
 その透明な痛みによって、生命の道理として何かを守ろうとしている。その痛みは、祈りという言葉に置き換えることができるかもしれない。その祈りが、紅葉に対する美しい感覚につながっている。
 ふと、そんなことを考えたりしたが、そうすると、その守ろうとしている何かというのは、いったい何なのだということになる。
 それは生命にとって、とても大事なこと。生きる死ぬという分別を超えた本当の”いのち”がそこに指し示されているのではないだろうか。