サイクル

 シンゴさんが言うように、今日、消費メディアに“いのち”が搾取されている現状がある。でも、この場合、“消費”とはどういう状況のことを指すのか、じっくり考えなければならないと思う。
 まずは、必要以外の“物”をたくさん買ってしまう状況。そして、必要以上に“物”を買い換えてしまう状況。そうした傾向を煽りまくっているのが“消費メディア”。その結果、どうなってしまうかというと、自分の周りに、愛着の持てる物が少なくなってしまう。心を許せる対象が、よくわからなくなってしまう。“物”そのものが、“いのち”を搾取するのではなく、“物”と人間の関係が、“いのち”を搾取する方向に走っている。新しい物の方が良いとか、買い換えることが豊かさだという変な洗脳が依然として至るところに行われている。
 私は東京に住んでいますが、あまりテレビや雑誌を見ないからかもしれませんが、欲しい物は特にありません。消費メディアに煽られているという感覚もあまりありません。電車の中吊り広告とかを見ても、わざとらしいコピーとかビジュアルが、作り手はそれなりに考え抜いているのでしょうが、妙に滑稽に見えます。センスないなあ、ワンパターンだなあと思います。物を買いたくなってしまうような広告に遭遇できれば、それはそれで嬉しいかもしれません。
 東京でも、企業製品以外のところで、愛着が持てるものってたくさんあるのです。私は、家の近くの路地裏とか小さな商店街を歩くのは好きですし、電車に乗って郊外まで行かなくても、目黒の自然教育園などは何回行っても飽きません。ただ、東京は、それらの愛着を邪魔する刺激が多すぎるだけです。でも、そうした刺激を冷ややかに見られる心の状態になると、特に気になりません。満員電車とかは辛いですが。
 でもまあ、冷ややかに見るというのは、心を許したり、愛着を持っていることではないですから、そういうモノゴトが多くを占める世界のなかで生きていくことじたいが、辛いのかもしれません。
 物であっても、人であっても、世界であっても、心を許せるかどうか、信頼に値するかどうかが大きなポイントで、神なき時代にあっては、そこがニヒリズムに陥るかどうかの分かれ目だと思います。
 それで、私は、こんな時代ですけれども、ニヒリズムを超える可能性はあると思っています。その鍵は、日本人が好きな“消費”とも関係あるのですが、“サイクル”です。
 西洋的な世界観においては、確固たる不動の世界こそが秩序的で信頼の値する世界です。確固たる世界であるためには、“神”という法則が必要です。しかし、日本人は昔から、世界は流動的なものであるけれど、規則正しく循環するものとして信頼していました。桜は、なぜか毎年決まった時期に咲くのです。四季をはじめ、川の変わらざる豊かな流れを見ても、今この瞬間、目の前の現象としては流動的でありながら、日本人はその背景に秩序と安定を読み、そういう世界を信頼し、心を許しているわけです。それは法則ではなく、規則=さだめを信じる心情です。
 確固たる不動の世界に秩序を見いだし安心するのではなく、常に新しく生まれ変わることや、運命に安心を見いだす。そういう心情が、主体性がなく、消費メディアに乗りやすい理由でもあるように思います。
 こういう性質の日本人は、世界を司る確固たる不動の法則や“神”を見いださなくても、何かしらの物事が0から始まり、ぐるりと一回りをしてまた0に戻ると、「ああ、なるほど」と腑に落ちるところがあります。そのように移ろいゆく世界に運命を感じて心を許すことがあります。
 夫婦関係なんかにしても、フランス人の老夫婦などが手をしっかりつないで歩いていたり、しっかり抱擁し合ったりするのを見て、日本人に比べて夫婦仲がいいとか、日本人もああなるべきだと言う人もいます。しかし、しっかりと手をつないでいなければ互いを確認し合うことができないという痛ましさも、つなぎ合わされた手に込められているのです。
 それに比べて、熱い抱擁をしなくても、いろいろあったけれど、けっきょく元の鞘に収まったみたいな、しみじみと調和した空気を醸し出している日本人の老夫婦を私はけっこう見てきました。ぐるりと一回りして0に戻ったみたいな感じで。
 現在の消費生活だってきっとそうなります。逆戻りはできません。先にどんどん進むと、きっとどこかで憑き物が落ちたようになる瞬間がやってきます。今までいったい何やってたんだろうって。でも、そういう時に、それまでのことを悔やんで落ち込んでしまわず、むしろ逆に、自分がおかしくなったりして、心が自由になります。そういう世界、そういう運命、そういう自分に心を許せるような感覚とでも言えばいいのでしょうか。もともと、流動に順応しやすい体質の日本人なら、きっとそうなるような気がします。
しかし、日本人の人口が少なければそれでいいのですが、小さな島国に1億を超える人たちが生きているわけで、膨大な人数の過剰な消費活動によって自分たちが暮らす世界の美しいサイクルが徹底的に破壊されてしまうかもしれません。そうなると、いくら憑き物が落ちても、自分たちの世界に愛着が持てるようになれるとは限りません。だから手遅れにならないよう、どのような表現で“早い気づき”を与えていくかが、今一番大事なことのように思います。
ヒステリックに叫ぶだけでは、きっとダメです。
 今、構成を考えている「風の旅人」V0l.14(6月1日発行) 自然と人間のあいだ?〜回帰する時間 生死を超えるもの〜 は、上記のことの視覚化と言語化を実現して”腑に落ちる”ものにしたい。簡単ではないけれども。