紛争地の事象と真実?

 ここのところ、連日、異なるタイプの写真家と会う。金曜日は、村田信一さん。
 土曜日は、野町和嘉さんと石元泰博さん。日曜日が浅井慎平さん。
 
 村田さんは、戦争写真家として紛争地域を飛び回り、危険な状況のなかに果敢に飛び込んでいく命知らずの村田として、海外のジャーナリストからも一目を置かれていた。そんな彼も、数年前から、それまでの自分のスタンスに悩み続けていた。
 戦争の悲惨さばかりがメディアで大きく取り上げられる一方で、紛争地に行けば行くほど、普通の人の普通の暮らしが当たり前のように継続されている現実を目のあたりにするからだ。そのギャップはいったい何なのだろう。そう思って、紛争地域の、普通の生活だけを撮ってきたこともあった。
 彼は、イラクパレスチナチェチェンなどの人々と接していて、気の毒というより、むしろ羨ましいと感じることが多々あるという。その感じ方を、今日のメディアのなかで発表すると、血も涙もないやつと非難を受けるかもしれない。だけど、そう感じてしまうことも自分のなかで真実であり、そのあたりをどう表現すればいいかを考えあぐねて、時々、私の事務所にふらりと来ては、でっかい身体といかつい顔立ちとは裏腹に、ちょっと自信なさそうにモゴモゴと喋っていた。
 今日のマスコミやジャーナリズムは、“事象”と”解説や分析”だけを伝え、それが、この世の真実だと言う。もちろん、それを強制するわけではなく、見る方が自由に感じることが大切と言っているのだが、選択され切り取られた“事象”と”解説や分析”ばかり山積みされると、見る方は自由に感じることなどできやしない。
 村田さんは、そういったマスコミの無自覚の“正当化”が、自分の肌感覚とどうも合わない。

 そんな彼に、私は、本当のことを見てきた人間だけが持つ誠実さを感じて、いつも話に付き合っていた。
 戦争はもちろん悲惨だ。だけど表面的に見えていることだけでなく、構成的な深い面をどう伝えていくか、その最善の方法を模索することに真摯なジャーナリストは、そんなに多くはいない。
 私は村田さんほど悶々が深くないが、村田さんの悩みはよくわかったので、そのことを表していくのにどこが最善の地なのか、イラクなのかパレスチナなのかチェチェンなのかスーダンなのか、これまで彼とよく話し合ってきた。
 そして、この12月、彼は、ソマリアに行った。その時の写真を、先週の金曜日に見せてもらったのだが、全て6×6の中判フィルムで撮影した今回の写真は、何かしら一皮むけたもののように感じた。
 6×6の正方形のマウントは、長方形よりも対象の広がりとか奥行き観を表すのが難しく、そのため“想像の余地”が少なくなり、誤魔化しがききにくい。だから、ダメなものは、露骨にダメになってしまう。何を撮ろうとしているのか(表層ではなく、内面的に)という意思が、より明確でなければならないように思う。
 村田さんは敢えて、その6×6だけで撮影した。無様なまでに失敗している写真も多くあったが、比較的うまくいっている何枚かの写真をうまく組み合わせれば、村田さんが悶々としてきたことを表すことができるのではないかと私は感じた。
 紛争地という、とてもデリケートな局面の内面的真実を、どのようなテーマと誌面で表していくのが最善なのか。そこから先は、私の側の課題となる。