想像力の荒れ地(続)

 もしかしたら、人間は、今でも十分に想像的な生き物なのかもしれない。常に振り返りを行い、あれやこれやシミュレーションをしていて、その能力が失われたわけでないのかもしれない。
 右の天秤と左の天秤にいろいろなものを載せて、そこまではいいのだけれど、選択して行動する前の段階で、さらにもう一つ右の天秤に何か別のモノが載ってくる可能性を読んでいるのかもしれず、その為、身動きとれなくなっているのかもしれない。
 むしろ連想の幅が極端に狭く、ドはド以外の何ものでもないと決めていける人の方が、生きるうえで都合がよい時代なのかもしれない。
 我が身を”振り返る”人が多すぎるから、その間隙を縫って、我が身を振り返らない人が社会的に成功したりするのかもしれない。、
 しかし、たとえこんな時代でも、「人間の真価は危機に面した時に現れる」という言葉は十分に通用するだろう。危機に面した時、絶対音感のように擦り込まれ固定化されたパターンだけは通用しない。
 どんな人間でも、生まれてから死ぬまで順風満帆ということはあり得ない。
 変化による打撃を環境のせいにするだけでは、そこから一歩も前に出られないだろう。
 自分の理解を超えた世界が存在することを察し、その隔たりを埋めたいという切実な願いによって人間はいろいろなものを連想する。そして、その中から、その時々に必要だと思われるものをシュミレーションし、そのなかで最善のものを選択し、行動(かたち)に結びつけていく。そうしたダイナミズムがあってこそ、環境変化を乗り越えることができる。それが人間の生命力であり、察する力、連想力、シュミレーション力は、想像力があってのことだ。

 想像力というのは、地面のデコボコを吸収しながら動力をうまく伝えていく自転車のチェーンの”遊び”のようなものだろう。
 効率優先で、チェーンの長さをジャストサイズにすると、衝撃によってすぐに切れたり、ペダルを踏む力がダイレクトに伝わりすぎて、その動きを身体が自然に受けとめにくく、結果的にこぎにくく、長く乗っていられないだろう。
 そのチェーンの”遊び”というか”ため”づくりのような環境を、一人一人の人間が意識的につくりだす必要があると私が思う。学校まかせ、会社まかせ、政府まかせという発想じたいが、想像力の欠如状態に胡座をかいているということなのだ。