文と理の融合

 「風の旅人」4月号の茂木健一郎さんの原稿が届いた。小説のような濃密な書き出しから、科学の最先端を走る茂木さんならではの考察が展開され、それが現状分析に終わらず、祈るような思いから未来への展望へとつなげていく。茂木さんはタイトルとしては脳科学者ということになるのだろうが、私は越境詩人と呼んでいる。
 詩人というのは、いわゆる詩の形式のものが好きで書いている人ではなく、現代詩に多い言葉遊びでもなく、時代を照射し、そこから展望を見いだす言語世界を組織化していける人のことだと思う。だからその言語スタイルは時代によって異なって当然なのだ。
 そして今日のような世界において、「文」の形骸化した箱のなかに閉じこもったり、「理」の形骸化した箱のなかに閉じこもっていて、時代を照射する言語世界が組織化できるかどうか私は疑問だ。
 形骸化していない「理」の住人というのは、単に科学のお勉強をしているのでなく、真理へのアプローチの一つの方法として人間が科学的なスタンスを生みだしたということを充分に理解しながら、その科学世界を俯瞰できる眼差しを持っている人のことだ。
 同じく形骸化していない「文」というのも、文系と言われるテキストを好んで読んでいるのではなく、真理へのアプローチの一つとして人間が文学とか哲学・思想のスタンスを生みだしたということを充分に理解しながら、その世界を俯瞰できる眼差しを持つことだろう。
 「文系」とか「理系」というジャンルのなかで、それぞれを細かく細分化し、その一つ一つのカテゴリーの研究をする自分を「専門家」と称し、そのカテゴリーを聖域として守ろうとする人が多い。しかし、どんなカテゴリーであれ、その表層的な枠組みは偶発的なものであって、大事なものは、構成的な深い面だ。その構成的な深い面は、カテゴリーとかジャンルを越えて共通するものがある筈で、越境詩人は、その共通するものを掴み、自由に自分の言葉を組織化していく。
 こうした越境行為を知的遊戯のように勘違いして、知識の多さばかりを誇る人もいるが、それは表層的な越境行為者にすぎず、誰でも表層的情報を簡単に検索できる今日のような情報過多時代に重要な人だとは思えない。
 茂木さんが、それらの表層的知識遊戯者と一番違うところは、ハートが熱いところだ。ハートの熱さは、「真理」への思いの熱さだ。その熱い思いをそのまま吐き出しても伝えるべきところが伝わらないだろうという自己抑制によって、言葉の濃縮度が増す。茂木さんは、とても難しいことを簡単な言葉で語ろうとする。それは、彼にとって伝えるべきことを正確に伝えたいという思いが優先しているからだ。その逆に、大して内容のないことを、わざわざ難しい言葉を使ったり専門用語を散りばめて説明する人もいる。そういう人は、実のところ、本当に伝えたいものがなく、熱い思いもなく、自分を賢くみせたいという自己顕示欲しかない場合が多い。
 簡単なことを簡単に言うことや、簡単なことを難しそうに言うことは誰にでもできることで、難しいことを、どれだけわかりやすく伝えようとしているかで、私はその人を信頼できるかどうか判断している。もちろん、いくら簡単に伝えようとしても、受け手にそれなりの学習が要求されるレベルのこともある。しかし、人間は誰でも潜在的に学習意欲はある筈で、信頼できる人の言葉は、その学習意欲に刺激を与えてくれるものなのだ。親も学校の先生も、今はそうしたことが一番大切な時代であると再認識する必要があるのではないか。

 その茂木さんが、クオリア日記で、自然のレディ・メードと題して、
 散歩中に、木の枝とか、葉っぱを拾って、じっくり眺めて、そこに現れている“自己組織化”美に感嘆させられる旨のことを書いている。
 いみじくも、「風の旅人」Vol.12(2月1日発売)〜混沌から<かたち>へ〜は、その自己組織化および自己解体化を強く意識して制作した。混沌から<かたち>へというのは、私にとってそういう意味だった。
 私も家の近くの自然教育園を散歩するのが好きで、落ち葉を拾ったり、木の形を仰ぎ見たり、木の傷から生まれた瘤がカオス状に発達しているのに触れてみたりしながら、自然の自己組織化や自己解体力によって生まれた造形に感嘆することが多い。
 それで、今回の「風の旅人」では、写真家の広川泰士さんが撮影した葉っぱの写真と、松本路子さんが撮影した20世紀を代表する芸術家のポートレートをコラボレーションしてみた。

 掌サイズの一枚の葉の存在感の強さが圧巻で、自己組織化および解体化を自分に課してきた芸術家だからこそ、横に並べてかろうじて釣り合いがとれる。実は、松本さんは芸術家のポートレートだけも撮っているのだが、編集段階でそれを横に並べても葉っぱの存在感に負けてしまった。それで、芸術家と彼等の魂の影絵でも言うべき作品が一緒に写っている写真を葉っぱの横に持ってきてはじめて、釣り合いがとれたのだった。
 つまり葉っぱの場合は、それ一枚で完全な状態だが、人間の場合、外側と内側があってはじめて完全に近づけるのだと私は認識した。
 あと大坂寛さんが異なる時期に撮影していた樹木と女体の写真をコラボレーションしたが、人間もまた自然の生成原理の一部であることを示したかった。
 それと今月号の巻頭のクラウス・デ・フランケの空撮写真。彼はドイツのトップフォトグラファーだが、日本ではほとんど知られていない。そして石川梵さんの異なる視点の空撮写真。あれらの写真を見比べると、地球の大地もまた、自然の自己組織力と自己解体力の賜であることがよくわかる。
 混沌というのは自然の自己組織化および解体化エネルギーと言い換えてもよいのではないかと私は思う。混沌は混沌のままに、というのは、支離滅裂で放っておけばいいということではなく、自然の自己組織化エネルギーや自己解体化エネルギーに従っていれば、なるべくしてなるように<かたち>が生滅流転する。そこにものごとの“真実”が垣間見えるということではないだろうか。
 「文」の字の原義は、白川静先生によれば、死によって実現される荘厳、聖なる世界をいう。そして「理」というのは、モノゴトの道理を悟り知ること。
 そうであるなら、「文」と「理」の本質は、自然の自己組織力と自己解体力のなかに融合して隠されているように思う。