想像力の荒れ地(続)

 ものごとを連想して解釈し、そこから生まれるイメージにリアリティを感じる力は、人間ならではのものであり、身体的には決して強くない人間が生きていくうえで必須の能力ではないだろうか。
 危機を察する本能というのは、どんな生き物にもあると思う。でもそれは、瞬間的なもの、または単一の状況に対するものであって、山の状況を見て川を思い浮かべて川が自分たちに災いをもたらすと連想できる能力を、人間だけが備えている。
 そうした能力が養われた一つの要因は、「過去の振り返り」にあるのではないだろうか。
 「あれはあのようにしてああなった。その結果として自分に降りかかったあれは、きつかったなあ、うれしかったなあ」と、しみじみと自分の記憶を辿ることは、他の生き物のことはわからないが、人間の脳にしかない性質のように感じる。
 猿だって物思いに耽っているように見えることがあるというが、過去のことを振り返り、しみじみ感慨に耽るということは果たしてあるのだろうか?
 そういう”振り返り”の大切さが認識され、その振り返りが生きる智恵になることが経験上わかっていたから、地球上のどこの人間社会に行っても老人の昔話が尊重されるし、祖先の話が大切に伝承される。また、子供も、無意識のなかで、むかしむかしで始まる物語を好む。それらは人間の脳を、”想像力対応バージョン”に作りかえていくのであって、その作りかえが人間社会の文化として、連綿と受け継がれてきたのだ。
 また、フェニキア文字(アルファベットの起源)のように利便性に特化した文字以前に文字は発明されていたわけだから、”文字”というのは、”振り返り”を共有するために生みだされたのかも知れないと思ったりする。
 王の業績を文字で刻むという行為じたい、未来の人間を想定しているわけで、未来の人間がそれを読んで過去を”振り返る”だろうということが前提になっている。
 象形文字や古代の漢字などが利便性とは程遠い造形なのは、利便性という概念がない証拠で、何よりも、”振り返り”を正確に行う為、文字のなかに”人間が連想する世界像”を転化することが求められたのではないか。モノゴトの形が文字の形になっているだけでは、記録の伝達にはなるかもしれないが、ニュアンスが伝わらない。ニュアンスのなかにこそ人間が世界と付き合っていく際の智恵が籠められるわけで、そのためには、単なる形をなぞるのではなく、「連想」と「解釈」が必要になる。文字は、最初、芸術作品と同じように、この世に創造されたのではないか。
 本来、人間が生きる上で大切だったことは、利便性ではなく、「連想」と「解釈」から導かれる智恵の共有だったのではないだろうか。生死を決めるのは、利便性ではなく、一つの小さな揺らぎが、どのように増幅して、どのように自分に影響を与えるかを読みとる先見力だった筈で、そのように前に押し出す先見力の強さは、弓の原理と同じで、後に引く力がどれほど強いかで決定されるだろう。後に引く力=振り返り力なのだと私は思う。
 連想や解釈の力は、”振り返り”なくして培われない。
 それは何も、我が身を振り返ることだけではなく、人間は、文字を持ったことで、他人の”時”すらも振り返ることができるようになった。
 他人の”時”を多く振り返れば振り返るほど、その人の連想力はより重層的になって、引きが強くなり、前に出る力も強くなるだろう。

 そして今日において、他人の”時”を振り返る一つの方法が、小説を読むことではないかと私は思う。優れた小説というのは、作り手の”時”が濃密に詰まっている。小説に処世や、答えを求める人もいるが、もしそれらしいことが書かれているものがあれば、それは小説と言うべきものでないだろう。小説は、古代の漢字と等しく、他人の連想・解釈世界に入り込むことで、他人の”時”を生き、そのことによって、自分の”振り返り力”を強めていくものなのだと思う。

 そして”振り返り力”というのは、状況判断力につながっていく。
 状況判断力というのは、右か左か直観で決めるということではない。右の天秤に載せるべきモノと、左の天秤に載せるべきモノを、それぞれ数多く連想し、そのうえでどちらが重いか計れる能力で、そういうことを一瞬にシミュレーションして決断するから他人には直観に見えてしまうけれど、そこには、重層的な思考のプロセスが凝縮している。
 そうした選択肢を数多く連想していける能力が、人間ならではの生きる力だと思う。選択肢を数多く連想できるからこそ、状況変動が少しでも起こった際に、その”ゆらぎ”の増幅可能性を掌握し、瞬時に判断を修正することができる。
 つまるところ、想像力というのは、世界(社会や他人をはじめ、自分を取り巻く全てのもの)に生じるほんの僅かな”ゆらぎ”を敏感にとらえ、そこからつながっていく様々なことを連想し、解釈し、選択肢の幅を増幅させていく思考力のことではないだろうか。
 連想し解釈していくプロセスこそが大事であり、そこから導き出された”結果”は、思考の結晶ではあるけれど一時的なものにすぎず、それに捕らわれると、次の動きがなくなってしまう。
 たぶん養老孟司さんだったと思うけれど、「絶対音感」というのは、脳の機能で言うと劣っている状態だと何かの本に書いていた。ドの音をドと反応するのは、人間よりむしろ機械の得意技で、人間は、音痴の人が歌う時に、ドがドになっていなくても、本人はドのつもりで歌っているのだろうと察して、それでよしとできる。そのように人間の脳の優秀さは、絶対音感がわかることより、察する能力の幅がどれだけ広いかということに尽きるんだと。察する能力というのは、すなわち想像力だろう。
 だから本来の人間は、カラオケ採点機械のように、少しでも音階が外れたくらいで評価を下げてしまわない。情感とか、サビだとかコブシで心情移入できれば、うまい歌だと思う。ドはドでなくてはいけないのではなく、歌は心だと言って、数値化できない心の価値を想像できる。そのように想像し察することこそ、人間の美徳ではないかと思う。