人間の能力って?

「人間の好みに選ばれた家畜は同類の野生動物に比べて、敏捷でなく、失礼だが頭がよくない。支配者がそれと知らずに淘汰を繰り返した結果、従順で愚行を繰り返す現在の私たちができた可能性は意外に大きいのではないか。」中井久夫 『樹をみつめて」みすず書房より


 テレビで赤ん坊が備える能力についての特集を行っていた。

 生まれて間もない頃に備えていた多くの能力が、成長するに従って失われていく。そうしたことを経験的に知る現代人は、語学などの早期教育を勧めたりするが、いったいなぜそういうことが起こっているのか、実際の赤ちゃんをつかって研究するという内容だった。そして研究の結果、悩のシナプスに原因があるということまで突き止めているらしい。

 生まれてまもない赤ちゃんは、どんな環境にも対応して生きていけるように、悩のなかに様々なシナプスが張り巡らされている。シナプスが刺激を受けると存続するが、刺激を受けないと消滅する。そして、異なる刺激を受けると、その部分からも新しいシナプスが生じるという。

 そうしたシナプスの入れ替わりの結果、最初に備えていたシナプスの40%くらいが失われ、新しく30%のシナプスが生まれ、全体として10%くらいの減少となるということが説明されていた。

 脳内のシナプスは、生まれた時点から隙間なく存在しているので、既存のものが消えてなくならないかぎり、新しいシナプスが発達する余地がない。環境を生きていくうえで必要のないシナプスが残ると、必要なシナプスの邪魔をするらしいのだ。

 ということは、特定の分野において早期学習をしたとすると、その部分は確かに発達する可能性が高いが、それが他の能力を阻害することも考えられる。その人が生まれ落ちた環境において、早期学習において発達する部分が阻害される部分よりも重要であれば問題ないが、そうでない場合は、裏目に出てしまう。

 アメリカに生まれ落ちたなら、すぐに英語を身につけることが最重要なことになるだろうが、日本に生まれ落ちて、将来的に英語ができていた方がいいからという目論見で、他の能力の開花を犠牲にしてしまうことは、もしかしたら賢明でないかもしれない。

 英語にかぎらず、幼児期において様々な学習をさせようとする傾向があるが、シナプスの全体量に限界があるのならば、その分、他の領域の発達が損なわれるということだ。

 環境世界でよりよく生きていくために、悩内のシナプスは、その都度、外部の刺激を受けて、生まれたり消えたりする。その刺激が、将来の幸福を下支えする能力になっていくものかどうかが、とても大事なことになる。

 そのように考えると、人間にとって「普遍的な幸福」というものじたいが存在し得なくなるのではないか。

 シナプスというのは、「モノゴトをどう感じるか」ということにも力を及ぼしている筈だから、その発達のしかたによって、幸福感そのものも異なってくるように思う。

 アフリカの大地で生まれ育った子供と、先進工業国の都市で育った子供は、シナプスの発達のしかたが異なる筈であり、思考特性や感受性も違い、悲しみや喜びを何にどう感じるかも違ってくるのではないか。

 現代人が古代人の能力を評価するのは、現代人の方が古代人より賢いなどと錯覚しているからであって、私たちは、知らず知らず古代人が備えていた能力を失っている可能性も高い。持っていない者が、持っている者のことを知ることは簡単ではない。

 また、環境世界に対応するためにシナプスが発達したり消滅していって、その総合的な力が人間の生きる力になるのであれば、人間個人の能力差というのは、能力の現れ方の違いにすぎない。

たとえば「従順」と「独創的」では、言葉のイメージとしては後者の方が優れていると錯覚されるが、「独創」=「ひとりよがり」になって周りと適応できないことも多く、特定の環境世界においては、「従順」の方が、適応力としては高度になる。そして「従順」もまた複雑なシナプスの組合せによってはじめて実現しうる能力の一つであり、平和時においては、餌の食いっぱぐれがないということで、そうしている方が「賢い」ということになる。

 飼い主に余裕があって餌が豊富にある時は、「従順さ」が武器になる。しかし、そうでなくなっているのに「従順」という戦略しかとれないとすれば、それは「頭がよくない=その環境に対応すべきシナプスが未発達)」ということになるのだろう。

 そのように考えると、「従順」とか「独創的」とか「英語力」といった環境によって優位になるかどうかブレやすい能力よりも、環境が変わっても対応できる能力の方が大事という気がする。

 シナプスの発達と消滅は幼児期に爆発的に起こるが、その後、完全になくなるのではなく、生きている限り、それは継続するらしい。とすれば、幼年、少年、青年、成人と成長するにつれて変化していく環境のなかで、その都度、必要なシナプスを発達させて、不必要なシナプスを消滅させる能力こそが、一番重要なことであり、それは、「状況判断力」、「危機察知能力」、「洞察力」、「変化対応力」といった能力につながるのではないか。

 そうした能力の開花に関係するシナプスというものが、もしかしたら幼児期〜少年期の環境において、作られたり、消されたりするのかもしれない。

 「若い頃の苦労は買ってでもした方がいい」という格言は、苦労という心身に負荷のかかる環境に対応しようとして、「状況判断、危機察知、洞察、変化対応」に関係するシナプスの発達が促進されることに基づいているのかもしれない。そのメカニズムはわからなくても、経験上、多くの人がそういうことを感じているだろう。

 同じ番組で、赤ん坊の興味深い特性について紹介していた。

 たとえば、直接人間が向き合って語りかけると、赤ん坊の言語能力が飛躍的に向上するが、テレビ学習だと、まったくダメなこと。また、ハイハイとか歩くことができない赤ん坊が、同じ時期に生まれた赤ん坊と遊び、その中にハイハイをしたり、歩いている赤ん坊がいると、その翌日とかに突然、ハイハイする努力をはじめて、できるようになるということだった。

 つまりたわいもない遊びを通じて、脳が刺激を受けて、その外部刺激に対応しようと準備を始めるということだ。何の意志も持たないように見える赤ん坊が、刺激に応じて努力を始めるのを見ると、なんとも健気で可愛らしい。

 こうしたことも、直接的な刺激でないと反応しないようなのだ。

 「状況判断、危機察知、洞察、変化対応」などというと、特別で高次元の能力のように思われるが、そうではなく、外部刺激に対応する脳内反応の総合化であって、人間に当たり前のものとして備わっていることなのだろう。

 直接的な刺激が与えられれば、そのシナプスは残り続ける。しかし、直接的な刺激ではなく、間接的な刺激になったら、シナプスはあまり刺激されず、消えてしまうかもしれない。 

 直接的な刺激と、間接的な刺激の境目は、どこにあるのか?

 テレビ学習というのは、そこで展開されるものの刺激が、おそらく、「自分ごと」として感じさせにくい性質があるのだろう。

 テレビに限らず、「自分ごと」と感じるか「人ごと」と感じるかによって、脳内のシナプスの発達と消滅は繰り返され、それぞれの人にとっての「自分ごと」である環境に基づいた感性、思考、行動を作りあげていくのかもしれない。

 「友達のように歩いたりハイハイしたい、ハイハイできなければ取り残される!?」という危機感なのか何なのかわからないが、ともかく、そうした感覚が自分ごとになった時、赤ん坊は新しい次元の活動をはじめる。

 「マネーゲーム」や「お役所での自己保身」こそが自分ごとの世界になれば、それに対応するように自分を作っていく。また、何も考えない方が、より快適に生きるために都合が良いということもある。

 何を直接的に自分ごとして感じ、何を危機と感じるかによって、これからも人間の悩内のシナプスの存在のしかたが変わり、人間の思考や行動も変わっていくのだろう。  

  


風の旅人 (Vol.22(2006))

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