感覚が鈍磨していく原因?

奈良市環境清美部収集課の男性職員(42)が病気を理由に休暇・休職を繰り返し、ここ約5年9カ月の出勤日数が8日しかないことが分かった。また、ほかにも同部の2人の職員が、同じ期間に100回から200回近くも不自然な病気休暇・休職をとっていた。給与はほぼ満額が支給されていた・・・・・。」

 現在、世間で話題になっているこの「事件」について、今朝のテレビで鳥越俊太郎キャスターが、部落解放同盟との関係で論じ、かつて差別があり、今もあり、それをなくしていくためにも、部落解放同盟はこの件についてきちんと声明を出すべきだという趣旨の話しをしていた。

 テレビのなかでは当たり障りのない発言しかしないキャスターが多いなかで、この発言を敢えてするのは大変勇気がいることだと感心したが、テレビという媒体の特徴を知っている人にしては少し軽率すぎるようにも思った。

 テレビを見ている人のほとんどは、テレビで報道されることを真剣に自分ごとに引きつけて見たりしてはいない。だから、テレビを見て聞いた話は、アバウトな形でしか記憶されず、その記憶がイメージや先入観につながってしまう。

 「部落解放同盟は声明を出すべきだ」などという言葉は、直接、本人に伝えるべき言葉であり、テレビカメラに向かってお茶の間の人たちに語ることではない。

 聞く側に心の準備ができていないと、そうした発言の真意はきっちりと伝わらないと思う。

 そのような曖昧な情報の断片が、歪められて一人歩きしてしまうのが、メディアの恐さだ。もしも、今朝の発言内容について本気でそう思っているのなら、もう少し丁寧な表現が必要なのであって、テレビがそれに向いた媒体だと私は思えない。

 今回の奈良の事件は、もちろんこの男性職員の良心や振るまいが責められることなのだろうが、そうしたことに対して何の牽制も働かない体質こそが、この国のある領域での腐りきった状況を端的に示しているのではないか。

 誰も知らなかったわけではなく、上司だって少しはおかしいと思っていたのだから、見て見ぬふりをする原因が、見て見ぬふりをする人の内側やまわりにあるわけだ。

 今回のことに限らず、現代の社会のいろいろな場面において、無関心を装うことが、一番自分を傷つけなくてすむ方法になっている。

 社会人として間もない人と一緒に仕事する時、間違った作業を平然と行っていることがあって、それを注意する際によく返ってくる言葉が、「そういうものだと思っていました」とか、「先輩にそういう風にやるように言われました」だ。

 そういう人にとって、間違っていることを行っているという事実に対する申し訳ないという気持ちは、二の次になる。言われたことをやることが正しいことだと思っていて、行っていることが正しいか間違っているかは、重要事ではないようなのだ。

 そして、そのように間違った作業を教える先輩もまたその先輩からそのように教わっていることがあり、なぜその作業がそのように間違ってしまっているか深く考えたことがないまま、続けられているということも多い。

 そのように自分が行っていることについて深く考えずに表面的なことだけバケツリレーのように順送りしていく癖が、会社内でもある。ただ会社の場合、顧客とか取引先と常にシビアな関係に晒されているし、仕事の内容が成果となって現れるから、問題が表面化しやすい。奈良の役場は、そういうシビアな環境になく、ダラダラと存続していけるぬるま湯体質だったのだろう。

 こうしたことの原因を全て学校教育のせいにしてもいけないと思うが、たとえば歴史にしても数学にしても、その本質を考えることはおざなりになって、表面的な事象だけ覚えて試験をパスさえすればいいという教育になっていることは、歴然たる事実だ。

 「なぜそれがそうなっているのか?」 と自問自答し、人に確認し、対話し、協議するということが、学校や会社や家庭において、時間とエネルギーの無駄のように扱われているのではないだろうか。「理屈っぽいやつだなあ、言われたとおり、やればいいんだよ!」という雰囲気があるから、そういう訓練もできない。

 いい大学を出て、親にも教師にも誉められてきた若者が、実社会で働き始めても、「そういうものだと思っていた」という発想でしか動けないと、いい仕事ができない。状況に応じて柔軟に考察して判断して最善の策を導き出せない。そうした状況に陥っても、自分の実力のせいではなく、会社とか社会がおかしいと思ってしまう。

 しかし、会社とか社会というのは、一つの環境世界にすぎず、環境世界がおかしいとか、おかしくないという言い方が、おかしいのだ。

 砂漠、海辺、草原、山など、環境世界というものは千差万別だが、どれが正しくて、どれが間違っているという分別は通用しない。正しいとか間違っているといった分別は、人間に管理可能なものだと思うから生じるものであって、環境はどんなものでも人間が完全に管理できるものはない。管理しようと思っても、必ず、予測不可能な事態が生じる。それは自然環境にかぎらず、都市環境や会社環境にしてもそうだ。なぜなら、一つの環境世界は、そのなかだけで自己完結することは決してなく、その外の予測不可能な様々なこととの関係で成り立っており、その影響を絶えず受けていくものだからだ。

 会社などは、外の状況が変われば、それに逆らうことはできず、絶えずそれに応じて内側も変わり続けることになる。「今まで、そういうものだと思っていたから、これからもそのようにする」ことが通用するのは、外の世界もまた変わらないことが前提なのだ。

 そして、変わることが正しいとか間違っていると言ってもしかたがない。それもまた、砂漠と海のどちらがいいのか議論しているようなものだ。

 人間にできることは、自分が生きている環境に応じて、環境に働きかけながら、自分と環境とのバランスに配慮して生きていくことだろう。

 「そういうものだと思っていた」という発想ではダメなのだ。

 日本の教育制度の一番の特徴は、「疑問を持ち、問題を発見し、悩み、考え、問題提起したり、その問題に取り組む」ことより、「そういうものだと思う」ことに徹した方が、要領よく優位に立て、高得点を取れてまわりからチヤホヤされることだろう。

 しかし、現実の社会は、もはやそのようになっていない。

 にもかかわらず、学校成績が優秀な人が社会的にも優位な立場に立ち、度重なる不祥事においても、自分たちの得意とする答弁である「そういうものだと思っていた」とか「そういうことだとは知らなかった」を連発している。

 「疑問を持ち、問題を発見し、悩み、考え、問題提起したり、その問題に取り組む」ことを怠ると、目に見えにくい状況変化や不吉さを察知する感覚が鈍くなるのかもしれない。だから、デリカシーもなくなり、厚顔になるのかもしれない。


風の旅人 (Vol.22(2006))

風の旅人 (Vol.22(2006))

風の旅人ホームページ→http://www.kazetabi.com/

風の旅人 掲示板→http://www2.rocketbbs.com/11/bbs.cgi?id=kazetabi